1−4
「ごちそうさま」
ぽつ、と小さな呟きが耳に届く。
頭の中を渦巻いていた部屋のレイアウト案を一旦頭の奥にしまい込む。
「スープ、全部飲むんですね」
「身体に悪いとはわかっているんだけどね。ついやってしまうんだ」
そう言って軽く笑う先輩の顔に、先ほどの暗い表情は残っていない。
「さて、食事も済んだし私は帰るとするよ。君は?」
「俺もそうします。ちょうどコーヒーも無くなったんで」
言いながら、少しだけ残っていたコーヒーを一気に流し込む。
ゴミを片付け手を洗い、俺と先輩はコンビニの外へ出た。店内の明かりもそれなりに強かったが、日差しは日差しでまた別の眩しさがある。
「いつもコンビニで食べてるんですか?」
「いや、いつもってわけじゃないよ。今日はたまたまだ。お湯を沸かし忘れていてね。パンかおにぎりにしようと思ってたんだけど、いざコンビニに来てみたらやっぱりカップラーメンが食べたい気分になったんだよ」
ジャンクフードの魔力は怖いね、と先輩は微笑む。
歩道に差し掛かるまでのちょっとした道程で摘むように言葉を交わす。
「準備も簡単ですからね」
「あぁ、自炊するとなると色々面倒が多くて困るよ。最後に包丁を握ったのはどれくらい前のことだったかな。そもそもうちには調理器具がないし、自炊したくてもろくに出来やしないんだけど」
「あぁ、ご両親と一緒に暮らしてるわけじゃないんですね」
ニートと言っていたからてっきり家族ごとこっちに越してきているのかと思っていたのだが、そうではなかったらしい。
家族で暮らしているなら調理器具がないなんてことはまずあり得ないだろう。
そんな、単なる気付きのつもりで口から出た言葉だった。
一人暮らししてるんですね、を少し言い換えただけの、他意もなく何かを探るわけでもないこの発言に、しかし先輩の表情は敏感に反応した。
笑顔が消え、感情を示唆するものは全て洗い流されたかのように無機質な瞳。
睨みつけるでもなく、淡々と俺に向けられるその視線は鋭く、肉を抉るように突き刺さる。
たった一瞬で生じたその変化に俺は自分の不手際を悟った。何が問題だったのか、推測することしかできないが、原因が今の言葉にあるとするなら特定は容易い。おそらくは親についての話題が先輩にとってのタブーだったのだ。
過去を軽く思い返してみた限り、当時の先輩にとって親の話題が問題になったことは記憶にない。むしろ、先輩が自身の両親について話していた記憶が朧げながらに蘇ってきたくらいだ。
となれば、きっと高校を卒業してから今までのどこかで、これほどの反応を返すような何かが起きたのだ。
昔の知り合いとの再会は、かつての空気が戻ってきたかのような錯覚をもたらす。しかし、互いの知らぬ間にそれぞれがそれぞれなりの経験を積み、それらは確実に各々を変化させている。
そこに例外はなく、俺がそうであるように、先輩も。
俺があれこれと考えを巡らせている間も先輩は黙ったままだったが、このまま立ち尽くしているわけにはいかない。
知らなかったとはいえ、不注意で先輩のデリケートな部分に無遠慮に触れてしまった。まずはそれを詫びるしかない。
そして、どんな言葉を使い、どんな言い方をすればいいのか悩み始めた、その瞬間だった。
彼女の周囲に突如黒い靄が出現し、吹き出すようにして瞬く間に周囲へと広がった。
辺りを覆い尽くすように薄く伸びたその靄は、次の瞬間、俺と先輩の間を遮るように壁を作り出す。
視界を覆い尽くすほどの巨大な黒い壁。
威圧感はない。
一切の雑音が消え、漂うのは、ただただ強い拒絶の意思。
ざらり、と肌を撫ぜる感触がした。
気づけば靄の壁からは黒々とした女性の物と思しき腕が飛び出していて、伸ばされたその先、細く鋭い指先が、俺の頬に触れている。
視線の先、本来ならば先輩の顔が見えたであろうその場所からは、先輩とよく似た、しかし細部の異なる女性の顔が、押し出されるようにしてこちらへ向かってきている。
鼻先が触れるほどに接近しその動きが止まったと思ったのも束の間、それまで硬く閉じられていた両の瞼がぎちぎちと開かれる。
眼窩は空っぽだった。
深く黒く渦巻いて、底の見えぬ二つの窪み。
暗闇が、俺の眼を執拗に引き付ける。
淀み。
存在を知るものはそれをそう呼ぶ。
それ自身は意志を持たず、ただただ人の世の傍らに古くから漂い続けていたという。
多くの人々は淀みの存在そのものを知らない。認知することもできない。
しかし、例外はいつだって発生するものだ。
生まれつきの能力として、あるいは後天的に目覚めたものとして、いずれにせよ、淀みという存在がこの世にあることを知るものが現れる。
俺も、ある事件をきっかけに淀みを視認できるようになった。
聞くところによれば認知の仕方は様々で、俺のように淀みを黒い靄として視認している場合が最も多いが、それ以外にも、体感温度の変化や異様な耳鳴りなどで感じ取れることもあるらしい。
それが事実であることを、俺は身を以て理解した。
漆黒の手は確かにそこにあり、体温が吸い取られそうなほどに冷たく、細い指先が頬を伝い首元に差し掛かるその感触にはゆったりとした官能さすら伴っている。
視線を捉えて離さない二つの空洞は、品定めをするように揺らぎ、俺の意識を飲み込もうとしている。
淀みは、通常想定される物理法則の外側にあった。
安定した観測はできず、干渉もできない。
確かにこの世にあるのに我々とは全く別の層にある存在、そう思われてきた。
だが、いつの頃からだったのだろう。
淀みが人の強い思いに反応し、変化し、そして我々の世界に干渉するものであると知られるようになったのは。
超常現象と呼ばれるものの大半は、観測者の勘違い、無知による錯覚、あるいはその時点では未知だった科学反応である。しかし、そこから零れ落ちた真に超常たりうる現象は確かに存在し、それこそが淀みの干渉によるものであると、淀みを研究してきたものは語る。
なんだか空気が重い、寒気がする、そんな現象も時には淀みの干渉によるものらしい。規模が大きければ、あらゆる人々が視認可能なほどの塊となりこの世に現れたり、人の意志をも操ることがあるという。
かつては淀みを科学的な方法で取り扱おうとした試みもあったそうだ。
しかし、それらは悉く失敗した。
再現性はなく、観測結果も不定。
人の意志と呼応することまでは突き止められたが、どのような意志にどのような反応を返すのか、それらはまるで規則性を持たず、しかしランダムネスとも言えない振る舞いをを続けるばかり。いつしか科学的アプローチは縮小し、今は世界のどこかで細々と少数の手によって続けられているだけだという。
強い思いが必ずしも淀みと反応するわけではない。その条件には多くの仮説が立てられているが、有力なものすら定まらない状況である。
だから、俺にはこの淀みが何を意味するのか、何をもたらすものなのか、そんなことは全くわからない。ただ、予感はしている。
つぷ、と指先が肉の奥に入り込む。
痛みはない。
肉をかき分けるその感触も、恐らくは錯覚に近しいものだろう。
しかし、俺の中にある何かをその手が探り出そうとしていることは、直感として理解できた。ただ漫然とまさぐっているのではなく、その手は、窪んだ双眸は、意志を持ち俺自身へと干渉を試みているのだと。
ふと、昔の記憶が頭を過ぎった。
高校時代、強い陽射しの降り注ぐ屋上に呼び出され、ぬるりと見せつけられた右手首。
幾重にも刻み込まれた傷跡を撫でながら、うっとりと上気した歪な笑顔を浮かべるあの子。
戸惑う俺に滔々と愛を語るその口元を、服に手をかけ徐々にはだけてゆくその様を見て、俺は何を考えていただろう。
その時湧き出た感情は、どんな類のものだっただろう。
遠くに捨て去ったつもりの記憶がずるずると引き摺り出され、輪郭が徐々に鮮明さを取り戻してきたその時、不意に周囲の景色が変化した。
一瞬だった。
首元に食い込んでいたはずの腕は消え、目の前にはさっきまでと同じ格好で先輩が立っていた。あの顔も、それを生み出していた黒い壁も、いつの間にかどこかへ消え去っていたのだ。
車の駆動音、葉擦れの音、忘れていた雑音が戻ってくる。
「そうだよ」
先輩の声がした。
たった一言、表情の消えた顔から絞り出されたその声が、俺の意識を混乱から引き戻す。
「もう何年になるかな、ずっと一人で暮らしてる」
再び歩き出し、先輩は前を向く。横顔は静かで、コンビニから出てきた時と変わらない。
敷地から出てすぐに立ち止まる。
「凪島くん、どっち?」
先輩は道路の左右を指差している。
「え、あぁ、俺は家があっちなんで」
「そっか、反対だね。それじゃぁここで」
「あ、はい」
そんな風に、別れ際はあっさりとしたものだった。
軽く手を振り、先輩はそのまま歩き去って行く。
もしも何も起きていなかったら、俺も同じようにしてすぐに家へと向かっていただろう。だが、そうはできなかった。
淀みのもたらす知覚は時に白昼夢のような感覚を残すらしい。じりじりと長く続いたあの光景も、先輩の反応から察するに、実際にはたった一瞬の出来事だったのだと思われる。
遠ざかる先輩の後ろ姿を目を凝らして観察すると、微かにだが淀みと思しき黒い靄が周囲を漂っているのがわかる。
黒い壁の出現前後に先輩の様子に何の変化も見られなかったことから、あの場で淀みを認識していたのは俺だけだと推測できる。
今も身体から漏れ出ているあの淀みを、おそらく先輩自身は認識できていない。
人の身が淀みを纏うことそれ自体は珍しいことではないと、淀みを見ることができるようになってすぐに言い聞かされた。誰しも何かしらの強い思いは抱いているもので、それに惹かれた淀みが微かに漂う光景は当たり前のものなのだ、と。
しかし、それはつまり淀みが形を成して姿を現わすような状況が異常なものであるということでもある。
あれ程に確固たる姿形で、しかも俺に対する干渉も試みてきたあの淀みは、もはや無視できる存在ではない。
強く育った淀みは宿主と周囲に害をもたらす存在となりうる。
先輩があんな状態になってからどれだけ経っているのかはわからない。もしかしたら安定した状態にあり、心配するほどのことでもないのかもしれない。
だが、知ってしまった以上、放っておくことはできない。
逆村探偵事務所、いや、この場合は特異状況調査会神野支部と呼ぶべきか、この組織に所属することになった身として、淀みに関わる問題を見過ごすことはできない。
もちろんそれ以上に、淀みに関わっているのが彼女だからこそ、というのはある。
なるべく穏やかに暮らしていきたいと思い神野町にやってきたわけだが、現実はそう甘くなかったようだ。
俺の勘でしかないけれど、先輩のあの無機質な表情は、これがだいぶ厄介な問題であることを暗示しているように思えてならない。
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