1−2

「着いたよ」

しばし空想に耽っていた俺を逆村さんの言葉が現実に引き下ろす。砂利を踏みしめる音が少し続いたあと、エンジンの駆動が止まった。

逆村さんが車外へ出たので俺もそれに続く。

目の前には築二十年くらいの雰囲気を醸し出す二階建てのしなびたアパートがあった。各階四部屋ずつ、だろうか。ドアが全て道路に面していて、旧時代的な開放感と古臭さを漂わせている。俺から見て左手側には、昇り降りするときにはぎしぎしと音を響かせること間違いなしのこじんまりとした階段。

「外面はぼろっちいけど、中は大丈夫。この前、リフォームだかリノベーションだかなんだか、それをやったんだってさ」

「このくらいの大きさの部屋でリノベーションする余地あるんですかね?」

「知らない」

まぁ、なんにせよ中が綺麗ならそれはありがたい。

「君の部屋は二階の一番奥だね」

逆村さんは部屋の場所を指差している。

「空きがそこしかなかった」

「何か問題でも?」

「階段から遠いかな」

まだまだ若いんでそのくらい別に気になりませんよと言いそうになったが、いらぬ面倒を起こしそうな気がしたので口を噤んだ。

「鍵はこれ」

「あ、はい」

逆村さんはそう言って無骨なリングに繋がれた鍵を俺にぽいっと手渡すと、そのまま一階の一番左にある部屋の前まで歩いていった。

「おーい、潤。いるかい?」

ドアをノックしながら、逆村さんは部屋の中に声をかけている。

その後数十秒ほど何の反応もなかったが、逆村さんがもう一度ノックしようと腕を上げたとき、のっそりとドアが開かれ、奥から女性が現れた。

「はぁい」

「……寝起き?」

乱れた髪に開ききっていない瞼、だらしなくよれたシャツはまさにそれを物語っている。他にもう一点、本来なら看過すべきではない要素があるのだが、口にするのは憚られる。

「おはようございますぅ……」

ふにゃふにゃとした欠伸混じり声のがぽかりと開かれた口から垂れ流される。

「今何時だと思ってるんだい。……ていうか、下……」

逆村さんも気付いたらしい。

彼女がその言葉の意味を理解し、逆村さんの背後にいた俺に気付き、慌ててドアを閉じ、再び姿を表す。この一連の動作にかかったのは一分程度である。

「すみません。お見苦しいものをお見せしまして……」

「いや、まぁ……」

深々と頭を垂れる彼女に対して俺はどう反応すればよいかわからなかったので、適当に言葉を濁してやり過ごす。綺麗な太股でしたよなどと宣えば、セクハラ待ったなしである。

「潤、頭上げて。ほら、彼がこの前話してた凪島くんだよ」

「あぁ、そういえば今日からでしたっけ」

元の姿勢に戻った彼女の表情はまだぎこちないが、平静を装おうとしている努力は窺えるので、こちらも気にしないでおくのが礼儀であろう。

「あの、えっと、私、葉田潤と言います。一応、このアパートの管理人、という感じですねぇ」

葉田さんはえへへと小さく笑う。

「久しぶりに新しい人が入って来られるので、楽しみにしてたんですよぉ。これから、よろしくお願いしますね」

そう言いながら右手を差し出されたので、俺もそれに応えて握手を交わす。

ニコニコと手を振る葉田さんを横目に疑惑の視線を逆村さんに向けると、気持ちはわかると言いたげな深い頷きが返ってきた。

「まぁ大丈夫。何かトラブルがあったって話も聞いたことないし」

「えぇ、仕事はしっかりやってますよっ」

いやぁ、説得力を持った言動というのは難しいものだ。

「一応、お互い挨拶くらいはしといた方がいいと思ってね。何かあったら潤の世話になるわけだし」

「……そうですね」

ひとまず、今は逆村さんの言葉を信じることにしよう。第三者の証言は重要なのだ。

そして、その言葉がなぜか心に響いたか、葉田さんの表情はやる気に満ちたものに代わり、気合い入ってますよと言わんばかりのガッツポーズが繰り出される。

「基本的に私はいつでもこの部屋にいますから、何かあったら遠慮なく来てくださいね!小さなことでもお助けします!人生相談もドンと来い、です!」

何かあったら可能な限り自分で解決することにしよう。自助努力は大切だ。

彼女とは最低限の交流で済ませた方がよい、そんな気がしている。


それから、逆村さんは一通りやるべきことを終えたと判断したのか、僕は仕事に戻るよと告げて車に乗って去っていった。

それを受けて葉田さんも、おやすみなさいと言い残して部屋の中に戻っていく。

色々と気になることはあるが、このくらいのことなら日常には付き物だ。

二階に上がり、自分の部屋の前まで向かう。

他の部屋からは何も聞こえてこない。この時間には誰もいないのか、寝ているのか、それとも防音が優れているのか。いずれにせよ、のんびりと生活するにはちょうどよい環境なのかもしれない。

受け取った鍵でドアを開けると、新居独特の匂いが微かに漂ってきた。部屋の中に足を踏み入れる。

最低限の家具は一通り揃っているとあらかじめ聞いていた。

通路兼キッチンにはコンロと冷蔵庫が既に設置されていて、その反対には浴室とトイレのドアがそれぞれ。玄関の脇には洗濯機が置かれていた。見渡せば電子レンジも置いてある。至れり尽くせりだ。当面の間は家電を買い足す必要がなさそうだ。

奥に進むと六畳ほどの部屋があり、そこがメインスペースとなる。

南に面した壁はほとんどが窓になっていた。カーテンはあらかじめ備え付けられているものなのか、それとも逆村さんか葉田さんが気を利かせてくれたのか、どちらにせよ買う手間が省けるのでありがたい。

部屋の中には何もない。

放浪を始める前に私物のほとんどを処分してしまっていたし、放浪中の荷物は今の手持ちで全部だ。運び入れるようなものをもう持ち合わせていないのだ。

これから生活環境を新たに作り上げていくことになる。まさに新生活の始まりだ。精々その過程を楽しもう。

電気やら水道やら、自分でやらねばならない手続きはまだ幾つか残っているが、とりあえず腹が減った。

まずは食事だ。


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