Maltreated Alice
本田そこ
第1章 双眸
1−1
東京都
誰でも知っている、誰も知らない町。
都心部から電車で一時間ほどの距離にあるこの町に、この春、俺は引っ越してきた。
いや、引っ越してきたというよりは根を下ろすことにしたという方が適切かもしれない。
大学を卒業してから一年間、どこに就職するでもなく全国をふらついていたのだが、いい加減貯金も少なくなってきたしちゃんとした住居も欲しい、そんな思いがあり、ちょっとしたツテを頼ってこの町にある小さな探偵事務所に雇ってもらうことにしたのだ。
高校時代までを過ごした地元とも、大学生活を送ったあの寂れた地方都市とも異なる雰囲気を持つここ神野町は、高層建築はほとんどないものの駅周辺だけはほどほどに活性化されており、このアンバランスな構造がどこか懐しさを感じさせる。多分、視線のずっとずっと先まで続いていく青空と町並みの間の平坦な境界線が、心をくすぐっているのだ。記憶の中にあるはずのない、見知らぬ郷愁を匂わせるような静かな空気がこの町には漂っている。
俺の新生活は、この場所で始まる。
期待よりも安堵の方が大きい今の気持ちを素直に受け止めて、精々穏やかな生活を送れるよう、慎ましやかに努力していくことにしよう。
そう、心に刻み込んでいた。
「やぁ凪島くん、相変わらず元気みたいだね」
駅から降り立ちふらふらと彷徨う俺を、雑踏の中でもよく通る、低くて渋みのある声が出迎えた。
声の方へ振り向くと、人の流れの隙間から、黒い軽自動車の傍らに佇む壮年の男の姿が見える。そのシルエットは、何年ぶりかの再会にも関わらず以前と全く同じ印象だ。
「逆村さん、待っててくれたんですか」
彼の下へと歩きながら、久しぶりに再会した恩人に感謝の意を示す。
「たまたま時間が空いてたからね。君が時間通りに到着してなかったら帰ってたよ」
グレーのスーツの上から薄い深緑のジャケットを羽織ったその人の名は、逆村銀蔵という。
ここ神野町で探偵事務所を営んでおり、これから俺の上司となる人だ。
大学時代に俺がとあるトラブルに巻き込まれた時、助けになってくれた人達の一人でもある。その時の縁があって、俺は今こうしてこの場に立っているのだ。
「家の場所、よくわかってないだろう?送っていくから乗っていきなよ」
「実はそうなんですよ。助かります」
促され、俺は車に乗り込んだ。荷物は少ないから、直接車内へ持ち込める。
日本全国あちらこちらをふらふらと飛び回っている間は、ちょっとした事情があって神野町に来ることができなかった。
それゆえ、この町に引っ越してくるにあたっての家の手配などは全て逆村さんにやってもらっていたのだ。だから、俺は自分の家がどんな場所にありどんな部屋なのかをまるで知らない。最低限文化的な生活が送れる程度という希望は伝えていたが、それを逆村さんがどう解釈したのかも不明である。
当初の予定では神野町のあちこちを散策ついでにふらつきながら教えてもらった住所まで向かうつもりだったが、車で直接送ってもらえるならその方が楽でいい。
「どうだった?一年あちこち飛び回って」
「まぁ、そうですね、楽しかったですよ」
「ほう?」
「確かに面倒ごとはついて回りましたけど、俺、元々あまり旅行とかしないタイプだったんで、途中からはいい機会だと思って楽しむことにしてました」
「そりゃ良かった。変に気負うよりは格段にいいね」
車外の風景は駅前の繁華街をすぐに抜け出して静かな住宅街へと変わっていく。
人通りはまばらだ。
神野町はベッドタウンとしての側面が強く、優雅な午後のひとときを過ごすという土地柄でもないから、平日の昼過ぎという時間帯は閑散としている。
「そのせいで手持ちの資金が思ってたよりも早く無くなりそうだったんで、こうして逆村さんを頼ることになったわけなんですけど」
「はっはっは、まぁ、ろくに仕事もしてなかったんだから遅かれ早かれこうなってただろうさ」
「あぁ……そうかもしれませんね」
彼につられて俺も苦笑する。
「こっちとしちゃぁ遅くとも来年までには君を確保しときたいって考えてたし、ちょうどよかったよ」
「そうだったんですか」
「ここ最近は人手不足でね。うちのメンツじゃ手が足りなくなることが増えてきたんだ」
逆村さんは大袈裟に溜息をつく。
「神野町って治安悪いんですか?」
「それは他と大差ないかな、むしろ穏やかなぐらいだ。食べるに困るほどじゃないけどね。忙しいのはそっちじゃなくて特調会の方さ。最近はよそからの応援要請も多くてね、手が回らない」
やれやれと言いたげに首を振っている。
「となると、俺もあちこち飛び回ることになるんですかね?」
「いや、当分はこっちに専念かな。どちらかというと人が足りてないのは僕のサポートだから。それに、仕事に慣れてもらうまではそうするしかないだろう?」
「そりゃまぁそうですね」
「人手がどうしても必要ってときはあるかもしれないけど、そういう場合は多分林田くんの補助って感じになるかな。君だけってことはないと思うよ」
「林田くん?」
「あぁ、うちのスタッフの一人だよ。といっても他にはあと一人しかいないんだけど」
ということは、今の逆村探偵事務所は三人で切り盛りしてるということか。それは確かに人手不足待った無しだろう。
「多分、明日なら林田くんも事務所にいるかな。そのときに詳しく話すよ」
「わかりました」
あらかじめ、働き始めるのは明日からでいいと言われている。引っ越しに関わる雑事も少なくはあるが皆無ではない。どんな状況かは不明だが、部屋も少し整えておきたい。
「ちょっと驚くかもしれないね」
ふと、逆村さんが呟いた。
「え、何がですか?」
「林田くん」
「そんなに変な人なんですか」
「いや、そういうわけじゃない。若い子だけどなんでもそつなくこなすし、性格も悪くない。しっかりしてるよ、あの子は」
「はぁ、それじゃぁなんで」
「ま、明日になればわかる。多分だけど」
どうにも煮え切らない答えだが、明日にはわかるというのなら、今は気にしないでおこう。
俺は代わりに他に気になったことを尋ねてみる。
「あの、もう一人の方はどんな人なんですか」
「ん?赤岡さんのことだね。彼女には事務処理をかなりこなしてもらってるね。僕がそういう細かい仕事が苦手だからかなり助かってる。あとはそうだな、がさつな男だと難しい案件もなくはないから、そういう意味では欠かせない人だね」
「あぁ、女性なんですね」
「本業が別にあるから頼りっきりにできないのがちょっとしんどいけど」
「えっ」
ただでさえ三人しかいないのに、そのうち一人が兼業とは。
「それって、俺が入っただけで人手不足解消できるんですかね」
逆村さんは渋い顔をする。
「……どうかな」
「えぇ……」
「もしかしたら君にはいくらか書類仕事もやってもらうかもしれない。申し訳ないけど、そのときは頼むね」
「構いませんけど……」
「もう一人くらい事務仕事やってくれる人がいればいいんだけど、なかなか確保が難しくてね」
別に、俺はそういう仕事が苦手というわけではない。選り好みをする気もない。
しかし、果たしてこの職場は大丈夫なのだろうかという思いが仕事開始前から湧き出してきてしまった。
「まぁ、なるようになるか……」
不安の拭えぬ毎日など慣れたものだ。
大事なのはその中でいかにして楽しみを見出すかである。
そういう綺麗事で思考に蓋をして、俺は考えるのをやめた。
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