第3話 正しいこと
ただ立っているだけでも汗が出てきて、張り付くTシャツの感触が気持ち悪い。そんなもどかしいだけの夏。
高校二年の夏を終えた私と小林は変わらず恋仲であり続けた。しかし苦い夏の思い出を背負い込んだ私たちは見えない壁が隔てている感覚があった。私は小林の家に行く回数を減らし、小林は私の目を見て話さなくなった。それは小林が私に拒絶されたことに対しての怒りでもなく、小林が私を痛めつけたということの恐怖でもなく、ただ波長が合った二人は何もかも上手くいく、何もかも上手くいき幸せに過ごしていくという確信があって、それが些細な出来事で打ち破れた感覚に嫌悪していたのだ。だからあの夏以来小林は私に”それ以上の関係”を求めようとはしなかったし私もそれに対して咎めることはなかった。咎めたらいけない気がした。
季節は過ぎ変わらない関係も続き、高校生を卒業する日がきた。私は有名な私立大学の看護科に、小林は趣味の一つだった料理をきちんと学ぶためコツコツ積み上げた好成績を生かして都内の大手ホテルの厨房に就職した。一緒に過ごしてきた。でも私たちにはまだ見えない壁がいた。
「斉藤って男から危ないアルバイトの勧誘があったの、」
打ち込んでいたメッセージの画面をそっと閉じた。こんなことを伝えて何になると思ってしまった。中学卒業から長く続いた小林との恋仲だがある日の夏を堺にお互い干渉しないようにどこかで振る舞っていた。家庭事情を知っていた小林にはずいぶん助けられたことが多かった。でも干渉しない二人の仲は信頼というものとは別のもので出来ていた気がする。好きかどうかも正直わからない。ただそばに居たのが、一緒にいたのが小林だった。それだけだったのだ。そしてそれは小林もそうだ。静かに、穏やかに過ぎていた二人の関係は徐々に綻んでいた。
「仕事終わった」
「お疲れ様。」
「明日は早番だから電話出来ないわ。ごめんね。」
「いいよ、疲れてるんだし。私もレポート溜めちゃってるからやらないとだし。」
「そっか。無理しないでね、おやすみ。」
「ありがと、そっちもね。おやすみなさい。」
暗がりに光るスマホ。大学に上がってレポートや勉強、更に大学費を稼ぐためのバイトで精一杯で小林に会うことが劇的に減った。小林も大手ホテルの厨房に就職したものの勉強漬けで忙しそうにしていて同じように会うことが出来なかった。でもそんな小林とたまにする電話では私と違って小林の生き生きした様子が感じられた。それから半年ほど経って忙しさは増し、連絡は減っていった。高校生の頃、家のことで嫌なことがあったらすぐ小林に報告していたのを思い出した。そのたびに会いに来てくれたり電話してくれた小林の優しさが好きだった。大学入学を機会に買った少しいいスケジュール帳のカレンダーを眺めながらそんなことを思い出した。明後日、小林の誕生日。いつもお世話になっている小林に何か買ってあげよう。何気なく祝っていたお互いの誕生日を特別なものにしてみよう。そう思ったら居ても経ってもいれなくて渋谷行きの電車に乗り込んでいた。
「えっと、ここを曲がって。」
小林にケーキと小林が好きだった気がするメーカーの靴を買って、一度だけ一人暮らしを始めるんだと自慢げに案内されたアパートにきた。うろ覚えだがここのはずだと確信を持って二階右端の部屋のインターホンを押した。
「はい。」
聞き慣れない女性の声がした。部屋から出てきたのは低くもなく高くもない身長の小林ではなく黒髪の綺麗な大人の女性だった。
「あ、の、すみません。部屋、ま、間違えました。」
部屋を間違えたつもりはなかったのでしどろもどろしてしまった。左端だったかもと一歩後ろに下がった瞬間、女性の後ろにパンツ姿の小林がいた。
「え?」
拍子抜けした間抜けな声が漏れる。女もまずいという顔をした。
「失礼します。」
押し殺した。押し殺したつもりだったが声は震えていたし目元はカッと熱を帯びて鼻がつーんっと痛くなった。
「待って。」
どこか遠い夏で聞いた気がする、渇いた声が聞こえた。
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