第2話 正しいこと

 昨晩、斉藤という三十代ほどの男に声をかけられた。危ないアルバイトの勧誘だ。何故私に声をかけたか聞いたら、「どうしようもなさそうだったから。」と言われた。そう見える程疲れた顔をしていたのか何なのか、情けない。そんなことを思いながら教科書とレポートだらけで重たい鞄を背負い、お気に入りのバンドの音楽を聞き、朝から満員電車でもみくちゃにされていた。やるせない。今日も一日が始まると思うと肩の荷が余計重たく感じる。

 私、佐々木歩美には母親がいなかった。いなかったというよりは逃げられた。借金と当時中学生、思春期真っ只中の私と6つ離れた妹を残し、男とどこかへ行った。きっと私が知らないどこか遠くに。その代わり賢い父がいた。土木関係の会社を建て上手くやりくりして不器用ながらに私たちを育ててくれている父。私たちの健康は祖母が面倒をみてくれた。楽ではなかった。洗濯や掃除は自分でやらなければならなかった。わがままな妹の面倒もみなければならなかった。中学生の行事や参観日で集まる母親たちの視線も痛かった。不便だった。でも不幸ではなかった。怖くて厳しい父が苦手だったが中学を卒業する頃には優しい立派な父だと思った。毎日おいしいご飯を食べさせてくれる祖母も大好きだった。それだけで十分だった。でも幸せはきっと別の幸せも呼ぶのだろう。男勝りであっけらかんとしていた私に恋人が出来た。

 中学卒業式、仲のよかったクラスであったから別れが悲しくて教室の隅で数人の女子友達と泣いていた。

「佐々木。」

そこにやっと身長が伸び始めたくらいの小林悠斗の姿があった。周りの女子はさっきまで涙を流していたにも関わらず、らんらんと目を輝かせていた。男子はにやにやしながら小林を囃し立てていた。

「ちょっといいかな。」

照れくさそうに鼻を掻きながら言われた。

「うん。」

状況を飲み込んだ私にも恥ずかしさが移って流していた涙も引っ込んだ。卒業式を終えて片付けも一段落ついた寂寥のある体育館裏で「付き合ってほしい。」と小林に告げられた。彼曰く家庭事情が大変だと知っていたのに表に出さずに元気に過ごしていた私に惹かれたらしい。そして別の高校に行くのをきっかけに関係がなくなるのは勿体ないと告白に踏み切ったらしい。お互い挨拶する中ではあったがそんなに親しいわけではなかったし、家庭事情は複雑だったが悩むこともそんなになかったから元気でいれたのだ。色々突っ込みたくなってしまったがそれ以上に誰かに好意を持たれることが嬉しくて小林と付き合うことを決めた。


 私と小林はお互いが驚くほどに波長が合った。小林の影響で音楽が好きになった。デートは専ら家でが多かった。ほとんど小林の家にお邪魔したが、何をするわけでもなく音楽を聞いたり映画をみたり、たまに小林が趣味で始めたギターに触ったりした。他愛もない関係性は長く続いた。高校は別だったが定期的に会っては近況報告を交わしていた。

 高校2年の夏だったか、テストを終えて夏休みに入ったので小林の家に遊びに行った。小林と私だけだった。

「なあ歩美。」

ゲームをしている私の頭をゆっくり撫でながら小林が不意に口を開いた。「シたいんだけど。」

渇いた声だった。多分緊張とかそういうもの全部を押し殺していたんだと思う。私と小林は付き合って一年半ほど。そういうことをしてもおかしくない。むしろ高校になってから周りの女子はそう言った話で持ちきりだった。

「歩美もさぁ、シちゃいなよ!えっち!楽しいよー。」

小太りギャルの愛が言っていたこと思い出した。

「彼氏と付き合って1年以上でしょー?普通シちゃわない?私なんか3ヶ月くらいでやっちゃったー。」

なんて言ってたな。別にシたくないわけじゃないんだ。シたっていいんだ。ただタイミングがなかっただけで。だから私は「いいよ。」って小さく答えた。

 心臓の音がうるさかった。私のか、小林のか、分からないけど。慣れていた小林とのキスが激しくなる。心臓の音も激しくなる。

「いれる。」

「うん。」

怖かった。でもそれ以上に満足感があった。ただその瞬間を迎えたとき頭が真っ白になった。気づいたら痛い痛いと泣きじゃくっていた。何故か小林も泣いていた。泣きながら何度もごめんと謝っていた。それ以降小林が私に手を出すことはなくなった。

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