スノードロップ
自由帳
スノードロップ
雪が降ると、あの日のことを思い出す。
あの頃の俺は、と振り返る気もないが、どうしてもあの一夜だけは忘れられない。やはり忘れるつもりも無いが、それでもなお振り返るためには必要な手順なのだ。
当時俺が十二歳だった、母さんが死んだ日の夜。
何の変哲もない特異点。
今の俺が俺であるが所以の日。
一言で表わせと言われれば、母親の命日という他ないが、両親のことを初めて知った日とも表現できるのだ。
自分の関わらない自分のルーツ、両親の出会い。
前日譚ですらない、もはや俺の中での神話のようであったものだ。
あったかも知れない物語だ。
知ったところで参考にもならない、十二の俺にとっては、母親の存在を失わないための知識でしか無かったかもしれない。
だが今となっては違う。
道しるべのような、未知に導るような、かけがえの無い話だ。
♢
その日は随分と気温が低く、テレビでは「今世紀最大の寒波」等と謳っていた気がする。
俺にとっては母親の命日でしか無かったけれど、他の人にとってはホワイトクリスマスという物だった日だ。
「……雪が綺麗だなぁ、柊希」
母さんの入院していた病院から見た、触れる度に消えて行く儚い雪の冷たさを、今でも明確に思い出せる。
初めて見る雪だったのに、はしゃげるわけでもなく、ただ窓から手を伸ばして、手に落ちる雪を眺めて、その泡沫さを母さんと重ねてみていたのかもしれない。
父さんは俺の前で泣かないようにと、普段は飲まない酒を飲んで、何処か遠い景色を見ていた。
「なぁ父さん、父さんは何で母さんを好きになったんだ 」
子供心に何を思ったのか、幼い頃の俺はそう父さんに聞いていた。
何故聞いたかまでは思い出せないが、おそらく雪のように消えていく母親の事を、少しでも多く知りたかったんだと思う。
「あいつがいつも寂しそうにしてたから、放っておけなかったんだよ」
薬指の指輪を眺めて、懐かしむように答えてくれた。
俺が父さんと母さんが出会った頃のことを、もっと詳しく知ることになるのはこれよりも随分と後の事だ。
「今日見……母さんは、こんな雪の中でいつも寂しそうに立ってたんだよ。捨てられた仔犬、いや、今日見は仔猫みたいだったな」
「……想像出来ない」
「だろうな、俺も今に思えば出会ったばかりの頃の今日見は、愛想笑いばかりのやつだったよ……結婚してからは、愛想笑いなんて見なかったけどな」
幼い頃、俺の中の母さんの人間像ははいつも笑ってる人だった。今だってそれが俺にとっての母さんで、死ぬ直前まで笑っていたくらい笑顔の似合う人だった。
大人になってから、母さんの写真を見返しても、どの写真も同じように笑う母さんが写っている。
幸せそうで、無邪気な人だったと記憶している。静かそうな外見なのに、仲間はまるで子供みたいに無邪気な人。
「お前も、母さんみたいな人を見つけて結婚しろよ……大事にしろよ。俺の息子だ、嫁選びに失敗なんてさせないけどな」
「まだまだ先のことでしょ」
「どうだかな、クラスメイトの女子と、将来結婚してるかもだぞ」
「……うちの学校ブスばっかだし」
「王道の照れ隠しだな、好きな子がいるみたいで安心だ」
頭をぽんぽんと叩かれ、小学六年生の俺は照れ隠しに父さんを睨んだ。今にして思えば、我ながら王道過ぎる反応だったと思う。
まぁ……今でも父さんに見透かされてばかりなのだが。
「けど、人を好きになるって言うのは、いつか別れなきゃならないってのが前提だって事、忘れんな息子」
「子供相手に話がムズいんだよ」
「小学六年生って言ったら、もう大人みたいなもんだ。俺はその頃からずっとこんな感じだぜ?」
「嘘つき、母さんが言ってたよ。『出会ったばかりの頃の父さんは、とってもヘタレで可愛かったのよ』って」
母さんは父さんよりも、四歳年上だったらしい。見た目から言ってしまえば、父さんの方が髭のせいもあってか、十歳くらい歳上に見えなくもないのだが、実際は母さんの方が歳上。
後になって両親が出会った頃の写真を見た時になって、やっと母さんが父さんよりも歳上だと信じたくらいだ。
「今更その告げ口されても、もう怒れねぇんだよなぁ……」
泣きそうな声で、雪の降る窓の外に目をやっていた。
実際は泣いていたのかもしれない。
「天国で会うまで、忘れねぇようにしとかねぇとなぁ……」
その後、しばらくの間沈黙が続いた。
父さんはまた缶ビールを飲んで、俺は手に落ちた雪が消えて行く様を見つめていた。
「天国で再会しても、母さんならきっと『遅いよ』って先に怒るよ」
「かもなぁ……あいつ、あぁ見えて独りぼっちじゃダメだしなぁ」
「……だからって、父さんまで……死ぬなよ」
「死なねぇ――死ねねぇよ。どうせはやく逝っても『もっとゆっくりしてたかったー』とか言って文句言われるだろうしな」
今にして思えば、父さんが母さんを追って死ぬなどありえないと分かっているのだが、十二の俺はそんな「もしも」すら考えてしまう程、母さんの死にショックを受けていた。
当たり前だ、初めて家族が死ぬ経験を、それも母親が居なくなるなんて、母親の事が好きだった少年には重たすぎた。
それでも俺が、それこそ自殺やら何やらを考えなかったのは、悔しいが父さんの存在があったからなのだから、感謝にしなければいけない。
もっとも、この話にそんな蛇足な情報はいらないのだが。
♢
「……って話だよ」
初雪の降る東京の空の下、一つの小さな傘に身を寄せ合う男女。
彼らは有り体に言えばカップルで、その片方が俺という何とも幸せな話の始まりだ。
厳密には昔話を話し終わったところだが。
「柊希は本当、お父さん大好きだよね」
俺に身を寄せる恋人の美苗は満面の笑みで俺の顔を覗いた。
満面の笑みで、呆れたような口調。
ずいぶんと感情の読み取りづらい返答を用意してきたものだ。
「美苗、酒臭い」
「だってー飲みましたしー、柊希のせいでー今日は飲みすぎたしー」
少し涙ぐんだ声で俺に強く抱きついた。
「酔いすぎだ、雪降ってるんだから気をつけて歩けよ」
「お前はなんでプロポーズして、そんな平気な顔してんの!」
「いや……何かOK貰えたから、次は美苗の親に挨拶だなーって考えてたら照れる余裕が無い」
「お、おう……そう言われると私も酔いが覚めるな……」
そう言うと強く抱きついていた手を離し、涙ぐんだ目元から涙を拭き取った、少し冷静さを取り戻したようだ。
「反対されないと分かってるからこそ、行くのが気恥しい……」
それよりも何よりも、自分の父に報告するのが一番嫌だ。
小さい頃の、まさにあの日に言われた言葉通り、小学校のクラスメイトと結婚するだなんて言えば笑われること間違いなしだ。
先程は誤って「雪が降る度に思い出す」などと言ってしまったが、雪が降らずとも父さんの言葉は度々俺の脳裏に現れていた。
その度に馬鹿にされたような気がして、少しイラッとしたりもする。
「クリスマス、それもホワイトクリスマスにプロポーズなんて、乙女みたいなことするよね」
「……視点を変えれば、母さんの命日だけどな」
「その表現は何かお義母さんに悪いからやめて」
「大丈夫、あの人は息子が自分の死んだ日にプロポーズしたとしても、笑いの種にするだけだろうから」
きっとそうだ。
きっとこの事を母さんが知ったら、
「まさか私の死んだ日に奥さん作るとはねー、私が死んだ日くらい驚いたよ、全く流石は私の息子だ」
と、笑うだろう。
「母さんは死んだ事を悔いてすらいないよ、コンビニに行くノリで天国に行った人だしね」
「……その話はまた今度聞くことにする、流石にお義母さんが死んだ時の話は重たい」
「そうか」
実際のところ、今となっちゃ母さんが死んだ事自体は悲しくとも、死んだ瞬間は「母さんらしい」と笑える話だ。
きっと美苗に言ったら怒られるのだろうが。
「さて、この後はどうします? 俺はこのまま帰るでも、俺ん家に泊まるでも、ホテル行くでも何でもいいが」
「プロポーズされた後で、何もせずに帰ったりホテルには行きたくないかな」
予想通りの答えに、俺は少し笑う。
「何笑ってんだよ、そんなにヤリたかったか色情魔」
「違うわ」
ポカッ、と美苗の軽く頭を叩いていつも通りを演じる。
「どうせ明日も日曜で休み何だから、朝まで飲み明かそうぜ」
「おーいいねそれ!! ……けどそれこそプロポーズの後にすることじゃなくない?」
半笑いで返す彼女に笑い返して、少し格好付けたセリフを口に出す。
恥ずかしくなるような、気取らないセリフを。
「いつも通りが、一番好きなんだよ。結婚しようが子供作ろうが老人になろうが、いつも通りがいいんだよ」
結婚って、多分そういうもんだろ? ――。
「カッコつけんなばーか……でも、確かにそうだね、いいよ、吐くまで飲み明かそう!!」
何故そうなるのか。
そう頭でツッコミながらも、ニコニコと、少し酔っている事もあってかとても幸せそうに俺に抱き着きながらはしゃぐ美苗を見ているのは嫌いじゃない。
何だか少し犬と戯れている気分になる。そこが可愛くはあるのだが、雪の中でここまで不注意になられるとヒヤヒヤする。
足を滑らす前に、少し酔いを覚まさしてやるか。
「……じゃあ、先に潰れた方が俺の父さんに結婚の事を言うってことで」
「えぇ!? 酔ってる私圧倒的に不利じゃん!!」
さぁ、このまま「いつも通り」で行こうか。
スノードロップ 自由帳 @RakugakiLAB
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