8 決断
翌週の火曜日にプラスチック加工工場に出勤すると先週の金曜日にすっかり立ち直ったはずの香織さんの表情が暗い。気にはなったが勤務中。向こうから話しかけてくれない限り、おれの方から切り出し難い。だから、おれが香織さんの口から事情を聞いたのは、アパートで夕食をご馳走になった後だ。
「なんか、ちょっと面倒くさいことになってさ」
自分とおれの前に燗酒用の猪口を並べ、徳利から雪の松島を注ぎつつ、話を切り出す。
「別にキミに迷惑をかけるつもりはないんだ。だから黙ってても良いんだけど、やっぱりね」
普段は豪快な香織さんらしくなく、話がまわりくどい。だから何を聞かされるか察しがつくが、先まわりはしない。
「何でしょうか」
軽く促す協力はしたが。
けれども香織さんの口から次の言葉が出て来るまでに時間がかかる。
「キミは慣れてるかもしれないから驚かないかとも思うけど」
「何が言いたいんですか」
「弱ったな。こんなに緊張するとは思わなかったよ」
香織さんはマジで額一杯の汗を浮かべている。そろそろ可哀想に思えて来たので、おれの方から問いかける。
「子供かな」
「あちゃっ。やっぱ、わかる。本当に慣れてんだよね」
少しだけ安心したように香織さんが呟く。
「別に慣れてるわけじゃありませんよ。今時テレビドラマだって、そんな芝居はしませんから」
そう言い、おれは熱燗を口に運ぶ。
「それもそうだよね」
香織さんも熱燗を口に運ぶ。
何ともいえない沈黙が二人の間に降り、幕を張る。香織さんがなかなか、次の言葉を口にしない。こういう場合、いつも不思議に思うが、自分の心臓と相手の心臓の音がはっきりと聞こえて来るのは何故だろう。それが段々と柱時計や目覚まし時計のチクタクと鳴る音と入れ代わり、その頃にはもう自分の側に降りて来た沈黙がまるで気にかからなくなる。数十分の時間が流れても、おそらくまったく平気だろう。が、香織さん側の沈黙はそんなふうには流れていない。経験的にそう判断し、頃合いを読み、おれが沈黙を破る役を引き受ける。
「で、どうするんですか」
「キミにそう訊かれても選択肢は二つしかないじゃない。堕ろしてキミと続けるか、キミと別れて子供を生むか」
「かえでさんは生みたいんですか」
「そんな気はないよ」
「だったら、悩むことないじゃないですか」
「いや、そうなんだけどさ」
香織さんがふうっと重い溜息を吐く。それがまた沈黙を呼ぶのを避けるため、おれが言葉を選んで言う。
「それにかえでさんが望めば、おれ、子持ちのかえでさんと付き合ったって構いませんよ」
「でもそれは子供の父親になってくれるって意味じゃないよね。関口香織が生む子供の」
「答が欲しいですか」
「いや、いらない」
それで香織さんは心を決めたようだ。
「でもさあ、わたしたちって、あと十年経ったら恋人同士みたいに見えるかな」
心なしか、いつもより優しく行為を済ませ、夜の睦言のように香織さんが尋ねる。
「さあ。でも、さすがにおれの方が若いツバメじゃなくなりますね」
「そうかなぁ。五十三と三十六じゃ、よけいそう見えるんじゃないかな」
「かえでさんは今だって――さすがに二十代はムリだけど――三十代前半に見えますよ。スタイルだけなら二十代でも通ります」
「嬉しいこと言ってくれじゃないの。でも、この先十年付き合えるかな。キミがわたしを選んだのは偶々だし、わたしの方にはキミを選ぶ権利はないようだしね」
そう呟く香織さんの表情は淋しげだ。
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