6-2 辛い夜(承前)

 オカマバーに行き、しんみり酒を呑むという滅多に出来ない体験をし、香織さんをアパートまで送り届ける。辺りはすっかり早朝の気配。香織さんの達ての願いで添い寝をしたが、ものの五分もしないうちに香織さんが規則正しい寝息を立て始める。それで布団をかけ直し、おれがアパートを後にする。あの状態では、あと三十分で起きるのは無理だろう。が、代わりに工場に連絡を入れる気はおれにはない。言うまでもなく、それは大人の自己責任だ。元々体力自慢の香織さんなので心配する必要さえないかもしれない。

 路地で新聞配達のスーパーカブと擦れ違う。その先の道路で牛乳配達のハイエースと打つかりそうになる。早朝タクシーは不思議と見当たらず、前から何度も考えてきたが、やはりスクーターかオートバイを買う方向で検討しようかと、おれが考える。そうこうするうち、おれとくぬぎが暮らすワンルームマンションを道路一本隔てた歩道に着く。勤務先に向かうビジネスマン数人と擦れ違い、横断歩道を渡る。マンションに着くと欠伸が出る。エントランスのセキュリティを抜け、エレベーターホールに入る。降下ボタンを押そうとすると既に降下中。だから、そのままにし、同じホールに設えられた郵便受けを覗く。何も届いてはいない。程無くエレベーターが到着。出勤するビジネスマンと早朝ジョギング姿の年配男二人を吐き出す。互いに目礼し、マンションの外に出て行った男たちの姿を追うことなくエレベーターに乗る。くぬぎとおれの部屋がある八階のボタンを押し、扉が閉まるのを待つ。扉の反対側にある等身大の鏡で自分の状態を確認。鏡はセキュリティー向上を理由に取り付けられたものだ。入居したときにはない。目の下に隈があるが、それ以外、特に問題なさそうに思える。疲労で垂れ下がって感じる頬を両掌で引っ張り上げているうち、八階に到着。

「ただいまっ」

 一声元気良く発し、部屋に入る。

 狭い玄関の灯り以外が消えている。アコーデオンカーテンを開け、部屋を覗く。ベッドの向こうにかかるカーテンの隙間から洩れた朝陽で部屋の中が明るい。光の筋が延びたところでは部屋を舞う無数の埃がまるでダイヤモンドダストのようにキラキラと輝く。それを追いかけ、ベッドを見遣る。眠っているくぬぎの姿を目が捉える。くぬぎは眠っている。すやすやと。けれども表情が晴れやかではない。近づいて確認したわけではないが、頬に涙の跡が走るでもない。今は眠っているのでわからないが、目覚めたとして、その目は赤く晴れていないだろう。おれがくぬぎに何の疑いも抱かないように、くぬぎもおれに何の疑いも抱かないのだ。そのことだけが、はっきりしている。けれども気持ちは伝わるのだ。遮るものなく伝わってしまう、負の感情が存在し、心の中で膨らんでいる。漠然とした不安に変わり、心のある座をいつまでも占める。それを消し去るために必要なのは両者の信頼。それを維持することはまったく簡単であると同時に想像がつかないほど難しい。

 ワンルームに入り、もう一度小さな声でくぬぎに告げる。

「今、帰ったよ」

 ついで、いつものようにユニットバス洗面台で顔を洗い、できるだけ音を立てないように軽くシャワーを浴びる。ジャージとパジャマ代わりのTシャツに着替え、目覚まし時計はセットせず、くぬぎが眠るベッドに潜り込む。すると自分で想像した以上に疲れていたのか、くぬぎの肌のに触れた途端、死者のように眠ってしまう。

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