6 辛い夜

「あら、そうなの。とんだ災難だったわね」

 居酒屋を退け、『今日は帰る』というおれを祥子が引き止めなかったので、おれは香織さんのアパートに立ち寄ろうと決める。クシャクシャになった気持ちを晴らすためだ。祥子と睦美は何の因果かすっかり打ち解けてしまい、店を出てからケーキ屋にでも行こうと相談している。今頃、何処かのケーキ屋でコーヒーの残りを啜り合っているかもしれない。

 連絡を入れ、香織さんのアパートに辿り着く。珍しいことに香織さんが独り、ギルビーの野菜ジュース割を呑んでいる。安価な割に口当たりが良く美味しいカクテルだが、そこはドライマティーニと同じ、呑めば危険な酒。だから同じものをごく少量だけご相伴。

『そういえば、昔の知り合いが同じ職場に通うことになりましたよ。それって厭ですよね』

 危険なカクテルを啜りつつ、おれがぼやく。

『あら、そうなの』

 香織さんが答える。

「災いの種が撒かれるとしたらキミの方からだからね」

 続けて、そう発言する。

「かえでさん、意味、わかんない」

「さっきの話だと前に聞いたキミの昔の最愛の彼女のことを知ってる人なんだよね」

「はい。そうですけど、それが」

「あんなに好きだったのに、いなくなって暫くしたら、すっかり忘れた。そんな自分がとても嫌いになった。キミが昔の文学青年みたいなことを言い、わたしに好い子された日を思いだしただけ」

「それじゃ、ますます意味わかんねーです」

「だって今のキミがあのときから変わってるとは思えないもの。忘れていたはずの過去を、それを知ってる誰かに何かの拍子に混ぜっ返されるのは気分が好いことじゃないからね。どこかで決別しなきゃダメだよ」

「でもそれって、おれのせいなんですか」

「キミが原因で誰かが泣くとすればね」

 思い入れがあるとは思えない口調で香織さんが呟く。そんな見事なはぐらかしに泣きたくなったのはおれの方だが、そういう自分はあのとき捨てている。少なくとも、おれ自身はそう信じる。

「まあ、そういった印象を与えてるんなら以後、気をつけます」

 すると、

「キミが付き合う相手が全員、わたしってわけじゃないからね。そのわたしにしても虫の居所が悪いときにはキミのことを殺したくなるんだよ。自分の腕の中に永遠に閉じ込めるために」

 香織さんが怖いことを言う。

「かえでさん、それって怖過ぎ。それから今日は呑み過ぎ」

「だって、しかたないじゃないか。わたしは自殺体質じゃないし、キミだってそうだろ。だったら気持ちが離れてもいないのに急にキミに捨てられると知って心細くなったら、わたしだって毀れるわよ」

 更に怖い内容を明るい口調で呟く。

「でも、うん。今日は呑み過ぎかもしれない。本音が出てきそうで怖い」

 香織さん自ら酔いを認める。だから少し心配になり、

「今日、会社で何かあったんですか」

 と尋ねる。

「いや、会社じゃなくて個人のなんだけど、ちょっとね」

 それだけを言い、香織さんが口を閉ざす。

「話してくれれば聞きますよ。まあ、おれは良い聞き手じゃないし、言いたくなければ言わくなくたってちっとも構いませんが」

「ありがとう。こういうときのキミって優しいよね」

「何いってんですか、かえでさん、照れるじゃないっすか」

「友だちが死んだんだ」

「えっ」

「いや、一回だけ寝てるから薄い恋人かな。でもやっぱり友だちなのかな。わかんない。いったい、どっちだろう」

 そう呟く香織さんの両目には、いつのまにか大粒の涙が溢れている。今にも零れ落ちそうに見える。

「どっちにしても大好きだったんですね」

「そうなのかな。それもわからない。会えばいつも憎まれ口を叩いた。何かに付け、わたしのことを馬鹿にした」

「長い付き合いだったんですか」

「大学の同窓。頭はあっちの方が良かったな。でも世渡りの下手さはどっこいどっこい。器用なヤツなんだけど不器用なヤツで、わたしが落ち込んでいるときには尻を蹴飛ばしてくれたんだ。それなのに自分は自殺だって。信じられない。自殺だから家族が世を憚り密葬にした。共通の友人から連絡を受け、ついさっきわたしは知った。二ヶ月も前のことらしい。鬱になるような感じのヤツじゃなかったけど、人間、何があるかわからないからね。言ってくれれば今度はこっちが尻を蹴っ飛ばしてやったのに。わたしはそれに気づきもせず、何もしてやることができなかった。あーあ、友だちとして最低だな」

「自分を責めなくたっていいんじゃないですか。人が他人(ひと)にしてやれることなんて、そうそうありませんから」

「そんなことはわかってる。だから無性に悔しいんじゃないか」

「かえでさんの方まで毀れないでくださいよ」

「わたしなら大丈夫。そんなに軟くできてない。だけど今日は」

「わかってますよ。お付き合いしましょう。どっか出ましょうか。それとも、する」

「できれば両方がいいな」

「泥酔したら、いくらおれだって勃ちませんよ」

「する、ってのは、ヤル、ってのと同じじゃないんだよ。ただ近くにいてくれればいいってこと。肌を合わせてね」

 香織さんの指摘はその通りだろう。だから、おれはくぬぎに済まないと心の中で手を合わせ、これからの時間を香織さんに捧げようと即断。幸い、明日はおれの休日、木曜日だ。前からの計画ではくぬぎとドライブに行こうと考えていたが、くぬぎもおれも互いに近くにいられれば、それでまったく構わない。部屋の中でのんびり寛ぐのもまた楽しいだろうと考え直す。

「天気はどう。こんな格好でいいかな」

 振り返ると香織さんが出がけのファッションショーを繰り広げている。

「大丈夫だと思いますよ」

 香織さんが最後に身に合わせたトップスとボトムの組み合わせにおれがゴーサインを出す。おれが選んだ首飾りを香織さんが付け、ファッションショーが終わる。

 長い夜の始まりだ。

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