5-2 知り合い(承前)

 その日は、ほぼ定時で仕事から解放される。が、事務所に戻ってからそこを去るまで、おれは祥子からの――まるで自分たちの関係を進んで同僚にバラすような――痛い視線を浴び続ける。おれのその日の予定は速攻家に帰るだが、仕方がないので祥子に付き合う。

「で、何が聞きたいわけ」

 いつもの居酒屋。やはり遅れて入って来た祥子が隣に坐り、開口一番おれが訊く。

「別に仲谷さんとは疚しい関係じゃないぞ」

「ふうん、そう。でもジンくんのことだから、あんまり信用できないのよね。昔の彼女だったんでしょ」

「だから違うって。友だちの彼女だよ。当事のおれの彼女とあいつらとつるんで良く遊んだんだ」

「ほお、それは信用できないわね」

 おれの方を見ず、祥子がメニューを拡げながら言う。おれたちの方に近づいた居酒屋のバイト店員に自分の呑み物を告げ、おれの分を促す。運ばれて来るのが早そうな料理と遅そうな料理を同時に注文。

「とりあえず、それでお願いします」

「かしこまりました」

 バイト店員がそう答えるので、『喜んで』という威勢良い返事がないのも待ち合わせ場所にこの店を選んだ理由だったと思い出す。『承りました』か『承知いたしました』の方がおれは好きだが、居酒屋だと却って変か。そんなことを考えていると祥子に首をまわされる。

「なーにを考えてんだか」

 拳で頭をグリグリされる。

「けやきちゃん、今日は乱暴」

「で、結局、彼女ともしたんでしょう」

「どうして、そういう詮索をするかな」

「女の勘よ」

「おお、怖い」

 が、祥子の勘は当たっている。

「ジンくんって、そういうとこ見境ないよね」

 自分で言い、溜息を吐く。

「だから、そういうのが気にならない、というか許せちゃう女(ひと)としか付き合わないでしょ。で、これまで上手くやってこれたんだよね」

 ついで運ばれてきた梅サワーをごくりと呑む。

「ねぇ、修羅場とかあった」

 まるで、『ねぇ、去年の夏、海の家に行った』とでも問いかけるような口調だ。

「えっ」

「だからさ、修羅場」

「浅草の帝釈天ならいったことあるぞ。思ったよりも小さいけど。しかも壁に囲まれてるし」

「はあ」

 そんな豆知識を披露したところで話が通じる相手ではない。

「だからさあ、浮気相手と二人でベッドでいちゃついてるところを彼女に見つかるとか、逆にジンくんの方の友だちに見つかっちゃったとかさぁ」

「そんなこと訊いて、どうすんのさ」

「面白いじゃない」

「そんなの普通にあるわけないじゃん。テレビドラマの見過ぎじゃネ」

「いや、絶対にあったはずよ。あたしの頭の中でブンブン音がするんだもん」

「それも女の勘」

「そうよ」

「けやきさんの女の勘ってハチなわけ」

「はあ」

「だって、ブンブンって」

 言うと予想通り顔を殴られる。まあ、軽い拳骨だが。

「そういえば、『ぶんぶんぶん/はちがとぶ』ってあの歌詞、詩人の村野四郎が訳したらしいよ。ドイツ語から」

「ジンくんって文学部出身だっけ」

「言ってなかったっけ、経済学部卒って。卒論はシュンペイター経済学。例の貴族的養育の」

「じゃ、そっちはもう一人の彼女の入れ知恵か」

 おれの話を無視し、つくづくと言う。だから、おれは普通に返す。

「それも女の勘」

 けれども祥子はおれのその質問には答えず、別のことを言う。

「実はね、あたしも知ってんだな。そのことを」

 おれには何のことだがわからない。

「正式歌詞名『ぶんぶんぶん』がチェコ・ボヘミア地方の民謡として紹介されることもあるとかね。村野四郎の方は『亡羊記』とか『体操詩集』とか」

「すごいね」

「何故あたしがそれを知っていたかといえば、あたしの歴代彼氏の中で一番のインテリが教えてくれたからよ」

「ああ、そういうこと」

 頭の上から聞き慣れた声がする。どうやら、おれの真後ろに仲谷睦美が立っていたようだ。

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