3-2 かえで(承前)
約一年前に老朽化したアパートを出、今のアパートに越してから近所の人たちに、おれは香織さんの歳の離れた弟ということになっている。前のアパートのときは、それなりに人目を忍んで通ったが、人の口に戸は立てられない。中年女が若いツバメを捕まえたと噂される。もっとも噂の内容は当事者には正確に伝わらない。だから、どれくらい尾ひれがついていたかわからない。おれも香織さんも何を言われても気にしない、そんな態度を貫くが、いざその圧迫がなくなれば、予想以上に二人の関係に影を落としていたことがわかる。
「そうね。今のキミの方が卑屈さがないよ。わたしとキミの歳の差が十七あるっていうのにさ」
手際良く作り、盛り付けた食事をテーブルに運びつつ、屈託なく香織さんが話す。二十代の若い娘のような肌のきめ細かさはないが、ママさんバレー――いや、香織さんはママさんではないが――で鍛えられた強靭な筋肉には、また別の意味で堪らない魅力がある。
「かえでさんが結婚できなかったのって、やっぱり不思議ですよね」
食卓で時々話題にする、お決まりの台詞をおれが口にすると、
「縁がない上に不倫体質だって知ってるくせに」
これもまた、お決まりの台詞を香織さんが返す。
「とにかく、ま、召し上がれ」
「ありがとうございます。いただきます」
キンキの煮つけとキンピラゴボウとホウレン草のおひたしと豆腐と油揚げの味噌汁と里芋の煮付け(出来合いパック)とナスの漬物(これもただ切っただけのもの。ただし飾り包丁あり)と熱々ご飯がその日の夕食メニュー。普通に家庭的な味がする。
「かえでさんって料理上手いよね」
「三年近く呼ばれてるけど、どうして『かえで』さんなのかしらね」
「だって、それは前にも」
「誰かに聞かれても、って話だったら、この辺りじゃまずありえないわよ」
「だって、そんな簡単に戻れないっす」
「別に責めてるわけじゃないのよ。でもキミに抱かれているわたしは『かえで』なのかと思うと不思議な気がして。それに、あのときのキミが『裕太』なのか『仁(あきら)』なのかもわからないじゃない。実際、いったい、どっちなの」
「おれはおれですよ。素敵なあなたを抱いているのは、このおれ」
「ということは、普通に考えれば『裕太』の方なんだよね」
「気になりますか」
「最初はなんか。すっごいゴッコ遊びしてるみたいで興奮したけど。でもまあ、いいや。それで抱かれているときの感じが変わらないなら。蕩けているときは心も一緒に繋がってるって気がするから」
「それはおれも同じですよ」
「でも、本命じゃないんだよね」
「か・え・で・さん」
「あ、わー(か)った、わー(か)った。もう、言わない」
以前その件に関し、しつこく追求され、おれが腹を立て、二人の関係が崩壊寸前にまで陥ったことがある。結局、しばらく会わないうちに、少なくとも身体の方は互いに相手を求めていると気づき関係は修復されたが、以後危機が二人の関係にいつまでも孕まれることになる。たとえ以前より広く薄く引き延ばされていたにしても。
「でも、きっとあのとき工場長にはバレたわよね。まあ、何にも言ってこなかったけど」
「大人のヒトってみんな嘘つきなんですよ。それに大原さんだって当然気づいてましたよ。でもおれには何にも言ってこなかったし、睨まれもイジメもされませんでした」
大原さんというのは、おれと付き合う前に香織さん付き合っていた不倫相手だ。技術者として優れた腕を持っているばかりでなく、種々のアイデアや発想も豊か。後に本人が述べたように雑誌の記事がヒントになったのだろうが、商品展示請負仕事は大原さんの提案から生まれる。
「でも、辞めちゃったじゃない」
「だから、あれは奥さんの実家を手伝うことになったって」
「信じてんの」
「さあ、わかりません」
「わたしは信じてないわ」
「そういえば、かえでさんって以前、大原さんの奥さんに怒鳴り込まれたことあったんですよね」
「電話でだけどね。だからシラを切り通した」
「それでいいんですよ。浮気された人が欲しがっているのは浮気の決定的な証拠じゃないですから」
香織さんも最初の頃は今の祥子と同じで、おれが自宅の所在地を教えないことを事あるごとにやんわりと詰る。が、そのことは、今ではもうどうでも良くなったらしい。あるいは探偵を雇い――それとも単純におれの後をつけ――、既におれとくぬぎの住処を知っているのかもしれない。そんな態度はおくびにも出さないが。
「ねぇ、お風呂一緒に入ろうか」
夕食を済ませ、二人でぼんやりテレビを見ていると香織さんが提案。
「そんなことして、もし誰かに覗かれたら、それこそ、ご近所中で話題持ち切りになりますよ」
「そうだね。近親相姦だもんね。それはそれでソソられるけど」
そんなことを口にするものだから、おれも妙に興奮してしまう。
「かえでさーん。しよう」
「えーっ、まだお風呂入ってないし」
「じゃーっ、早く入って」
「お皿洗うからキミが先に入ってよ」
「おれが皿洗うから先に入りなよ」
「えーっ、でもキミは食器をちゃんと拭かないからなあ」
「いーから、いーから」
「そーお。じゃあ、お言葉に甘えて」
香織さんがクローゼットから着替えを取り出し、風呂場に向かう。洗濯機の前で脱衣する香織さんの裸体を食器洗いをしながら、じっくりと眺める。体型的に腰骨は張っているが、つくづくバランスの取れたきれいな身体だと感じる。
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