2-2 けやき(承前)

「ジンくんって、恋人いるんだよね」

 居酒屋で空腹を満たした後、ぶらぶらと寄り道しながら、夜の道路をほろ酔い加減で歩く。十数分後に到着した祥子のアパートの鉄階段を昇り、部屋番号2Bの風呂付1DKに祥子が先に上がる。靴を脱ぎ、電気を点け、テレビのリモコンを卓袱台の上に探し当てる。そのスイッチを点けてから、自分の後を追い和室に入ってきたおれの方を見ずに問いかける。

「だって一度だってジンくんの部屋に連れて行ってくれないじゃない」

「親と住んでんだよ」

「どうしてそこで嘘をつくかなぁ。あたしは別に結婚してくれなんて言わないわよ」

「嘘だと思ってるんなら訊かなきゃいいじゃん」

「ねぇ、その人とは長いの」

「だから、いないって」

「名前は」

「けやきさん、今日、ちょっとしつこくネ」

「そうね、ちょっと酔っ払ったかもしれない」

「じゃあ、今日するの止めにする」

「やだあ、そのために会社で流し目したのに。毎日でもしたい、っていうか、触っていたい、ジンくんの身体に」

 そう言うと祥子は丸い古風な卓袱台の前で既に座布団に坐っていたおれのTシャツを上からするりと脱がす。猫のように器用におれに寄り添り、おれの胸と腹の筋肉に頬擦りをする。

「おれの筋肉なんか、職場の十年選手に比べればヘナチョコだろ」

「うーん、いやーっ、これがいいんだよね。あたしの好み的に」

「良かったね。お気に入りに出会えて」

「そうなのよぉ。うん、この肩も好き。鎖骨の張り出し具合がちょうどいい」

 祥子がそんなことを呟きながら両手を裏返し、肩の先から鎖骨までを舐めるように触る。

「でもペニスはもっと細くて長いのが好みなんだな。なーんか、男たちみんな勘違いしてるのよね。太くてでかけりゃいいと思ってて。バッカみたい」

「そういうふうに宣伝しないと風俗産業が成り立たないんだろ、きっと」

「ジンくんって、女に困ったことないよね。初めてはいつだったの」

「訊きたいわけ」

「うん。嘘でもいいわよ」

「けやきさん、今日は良くしゃべりますね」

「今さ、酔いを醒ましていることなのよ」

「なるほど」

 すると祥子が卓袱台に手を伸ばし、半分ほど内容物が残ったペットボトルのウーロン茶を掴む。キャップをまわし、飲み口を露にし、ゴクゴクと音を立て飲む。

「ふーっ、ぬるーい」

「冷蔵庫にあるなら出してきてやるよ」

「ありがと。お願い」

 それで、おれが座布団から立つ。そのまま祥子がクタっと寝そべる。

「ふみーん」

 と鳴く。

 おれが台所の冷蔵庫を開け、冷えたウーロン茶を取り出す。横目で祥子の仕種を盗み見ながら、なんで今おれ、ここにいるんだろう、とふと思う。

 家に帰ればくぬぎがいる。文句もいわず、ただ待っている。おれが浮気しているなど、つゆとも疑っていないだろう。だから今頃、 どうしているんだろう、遅いな、仕事が長引いているのかな、トラブルに巻き込まれていなければいいな、などと思い惑っているに違いない。

 それとも実は気付いているか。

 おれがくぬぎを愛して止まないことを、もちろん承知した上で。

 わたし一人とずっと一緒にいると、きっと息が詰まってしまうわ。だから構わないから遊んでいらっしゃい。あなたがわたしを愛することを忘れないなら、いくらでも浮気を楽しんでいいのよ。

「ホラ、飲み物」

「ありがと」

 ウーロン茶を渡すと、さっきと同じく祥子が咽を鳴らしゴクゴクと飲む。

「うーん。冷たーい」

「そりゃ、そうだろうさ。たったいま、冷蔵庫から出してきたばかりなんだから」

 そろそろ頃合だと見計らい、祥子を後ろから抱きしめる。下着に手を突っ込み、乳房を弄る。

「きゃっ、くすぐったーい」

 それから項に舌を這わせ、右側からそっと唇を合わせる。唾液を送り込み、舌を絡める。

「ふうーっ」

 しばらくキスをし続けた後、舌を離して息を継ぐ。

「抱っこ」

 祥子が言う。

「はい、お姫さま」

 それでベッドまで祥子をお姫さま抱っこし、ベッドの上にゆっくりと降ろす。すぐさま祥子が下着を脱ぎはじめる。祥子は違うが、男に下着を脱がされるのが好きで、それもプレイのうちとしている女の場合、おれは素直にそのルールに従う。

「あああん……」

 その代わり祥子は激しく抱かれるのが好きだ。もちろんサドマゾではないので、あくまで常識の範囲内での激しさだが。

「そう、うん。なんか今日、いいわあ」

 おれが身体を嘗めまわすと祥子がすぐに反応。

「けやきちゃん、今日はとっても良い香りがするよ」

 シャワーを浴びていない祥子の汗が欲望の体液と微妙に混じり合い、おれの感覚を刺激する。


 結局、深夜十二時過ぎに湯沢祥子のアパートを出る。

「泊まってけばいいのに。だから彼女疑惑なのよ。いつも必ず帰るじゃない」

「同じ服だと付き合ってんのバレるからな」

「嘘おっしゃい。明日はウチの会社じゃないくせに。で、家に帰って今度は最愛の彼女とするんでしょ」

「そんな元気あるわけないだろ。自分で搾り出したくせに」

「えへへへ」

 祥子には教えていないが、自宅のワンルームマンションまで祥子のアパートから歩いて小一時間もかからない。それが祥子をセックスの相手に選んだ一因。当然、それも祥子には教えない。別の一因は――本人はどう思っているか知らないが――少なくともおれにとり、彼女が面倒な女ではないからだ。面倒でないという点では付き合いの長い香織さんも同じだが、仮に別れ話が出たとき二人がどう反応するか、おれにはまったく見当がつかない。もっとも香織さんは付き合い始めに、

『必死になった四十女は怖いわよ』

 と冗談とも本気ともつかない口調でおれを脅す。

 歩き始め、五分ほどし、急に疲労感が押し寄せる。腰から下が猛烈にダルい。そんな感覚。辺りを見まわすと丁度良い具合に自転車がある。鍵を確認するとかかっているが、螺子が緩んでいたので本体ごとまわる。つまり外せる。鍵をそのままの角度で走行中に落っこちないように安定させる。

『どうせ盗難車で、ここで乗り捨てられたんだろ』

 心の中で言訳し、自転車を借りることにする。警察に捕まると面倒なので自転車の前輪に付くダイナモをタイヤ側面と接触させる。が、電球が切れているらしく、ペダルをこいでもライトが点灯しない。無駄だとわかったのでダイナモを上げ、辺りを確認しながら再度ペダルを漕ぐ。幸いなことに自転車に乗っている間、巡邏の夜警に遭遇しない。

 くぬぎと暮らすワンルームマンションは四車線の一般道に面している。道路の反対側に自転車を停め、車に用心しながら横断歩道を渡る。既に深夜一時近いが、疎らでも人影が絶えない。マンションの一階に設えられたコンビニエンスストアの赤と緑とオレンジのマークと無人に見える店内から漏れる明かりが、僅かに湿り気を帯びた夜の空気に眩しい。

「ただいまっ」

 元気良く声を出し、部屋に入る。

 狭い玄関の灯り以外消えているので、くぬぎが眠りについたのだとわかる。懸命にも、おれを待つことを止めて。

 玄関と部屋を仕切るアコーデオンカーテンを開け、部屋を覗く。奥のベッドの掛布団の中にもぐり込んでいるくぬぎが見える。顔だけを丸く布団の外に出している。おれはもう一度小さな声で、ただいま、と声をかけ、ユニットバスの洗面台で顔を洗う。ついで、できるだけ音を立てないようにシャワーを浴び、ジャージとパジャマ代わりのTシャツに着替える。目覚まし時計をセットし、くぬぎの眠るベッドにもぐりこむ。

 忽ち激しい睡魔がおれを襲う。が、くぬぎの肌の弾力に触れ、下半身がに屹立する。けれども、その日は睡魔が優っていたようだ。くぬぎの背中に貼りつき、両腕を前にまわしたところで死んだように眠ってしまう。

 不思議なもので、いつもより眠る時間が遅かったにも拘らず、目覚まし時計が鳴る前に目が覚める。ベッドから起き上がり、くぬぎを見る。まだスヤスヤと眠っている。おれは自分の口許に思わず柔らかな笑みが浮かぶのを感じている。

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