2 けやき
引越し先の家に待機していた中年家主がボケだったせいで搬送に手間取り、勤務先に戻ったのが夜九時近く。初秋というのに涼しさはなく、仄暗い夜の色がなければ午後遅くのようにも感じられる。
「しかし参ったよなぁ。あのおっさん」
その日同じターンを受け持った同僚の真崎修平さんが、おれに愚痴をこぼす。
「最初に渡された配置図じゃ絶対収まらないのがわかってんのに絶対変えるなって言い続けてたからね。それに手伝ってくれたのはいいけど却って邪魔でさあ。おれたちに全部任せてくれれば済むのにね。お任せ便なんだから……」
「本当にそうですよね」
疲れが溜まっていたせいもあり、おれは真崎さんに愛想だけを返す。
「お疲れさん」
「おつかれさま」
事務所に入ると、残業していた何人かが労いの言葉をかけてくれる。だから、おれは帽子を脱ぎ、
「ただいま戻りました。報告書を出して、すぐに帰ります。今日は本当に疲れました」
威勢良く挨拶を返す。
真崎さんの方が十歳以上年上だが、本日最後の引越し運送責任者はおれ。だから借り決めの机に座り、所定の用紙の所定の空欄を粛々と埋める。最後に判を押し、書類書きが終わる。後日郵送されてくるかもしれない顧客アンケートで落度が指摘されなければ今回のミッション――と呼ぶのは仲間内の符丁だ――が終了する。苦情があれば若干のゴタゴタ。これまで、おれ自身は大きなトラブルに巻き込まれたことがない、が、可哀想なヤツは何処にもいる。ここS支店も例外ではない。いわゆるモンスター・クレイマーあるいはモンスター・ペイシェントはどんな業界でも涌いてくる。そのときは支店長まで謝罪に走る。担当社員の首は飛んだらしい。もっとも相手が本当にモンペだったかどうか、おれには知る由もない。
作業着を脱ぎ、シャワー室で水シャワーを浴び、ヒヤっとする。何故水シャワーかといえば法的必要により社屋の薬物取扱場所に設置された消火用シャワーだから。バスタオルで身体を拭き、擦り切れたブルージーンズとTシャツの私服に着替え、事務室に戻る。すると経理の湯沢祥子が、おれに秋波を送ってくる。疲労感が募るので、どうしようかとおれが迷う。が、予定外の残業で調子が狂ったから誘いに乗り、それで調子を戻そうとか考える。それも生活。もしかしたら、とうにバレているかもしれないが、職場の誰もおれと湯沢祥子の関係を気にしない。儀礼的に時間をずらし、湯沢祥子が先に会社を出る。おれのタイムカード刻印は午後九時半をまわる。
会社最寄駅から二駅離れた待ち合わせの居酒屋は祥子のアパートが建つ町の繁華街にある。居酒屋に到着したのはおれの方が先だ。二度目にデートしたときから、その居酒屋が祥子とおれの行きつけの店になる。店の混雑具合から注文品が出てくるまで時間がかかると判断し、前もって料理を頼んでおく。おれは安酒だと頭が痛くなる体質だから、その店では最上級の南部美人を升でチビチビやる。そのうち人目を憚りながら祥子が店に入って来る。おれを探しあぐね、キョロキョロと細い首をまわす。おれが手を振り、自分の存在をアピールする。
「けやきちゃん、こっちだよ」
職場の同僚ではなく仮初の恋人として付き合い始めてから、おれは湯沢祥子を『けやき』と呼ぶ。
『なによ、あたしは植物』
最初はその呼称に難色を示した祥子も、
『そう呼んでいれば知り合いが近くにいて声を聞かれても気づかれないだろ』
おれが説明すると、
『それは、そうかも』
と納得する。もっとも、すっきりと腑に落ちたようではない。そのすぐ後で、
『じゃあさ、あたしは裕太くんのこと何て呼べばいいのさ』
祥子に切り替えされ、おれが言葉に詰まる。そこまで考えていなかったからだ。
『いいじゃん。けやきちゃんが適当につければ……』
と答えると、
『だって、思いつかないもん。ねぇ、考えて、考えて、考えてよ』
と煩く迫る。
『……んなの、こっちだってすぐに思い浮かばねえよ』
わずかにムカついて言葉を返す。すると突然思いつき、提案する。
『じゃあ、紅(くれない)はどう。譲ってマゼンダ』
『何、それ。意味、わかんないよ』
『緑の補色が赤なんだよ。でも赤じゃヘンだから、紅』
『やっぱり、意味わかんない。裕太くん、美術学校でも行ってたの』
『おれが、そう見えるかな』
『まさかね、見えないよ、全然』
『だろ。あのさ、中学のときに美術で習って、そのまま頭にこびりついてるんだな。カラーサークルっていうのがあって、それは虹の色を円にまわして描いたヤツで、ちょうど反対側が補色なんだよ』
『ふうん。で、理由はいいけど、紅くんじゃ、やっぱりヘンだよ。歌じゃないしね』
それから色々遣り取りし、おれの呼称が『ジン』に決まる。若干説明が必要だが、沈香(じんこう)から取られたものだ。
特に香りが良く伽羅(きゃら)と呼ばれる沈香の一種が『紅』なので最初の二文字を取り『ジン』。
『ジンくん』なら名前らしいという祥子の判断もある。
『でも裕太くん、じゃなかった、ジンくんは。いろんなこと知っているのね。そういう人って、これまであんまり知り合いにいなかったよ。ジンくんで二人目かしら』
それはおまえの頭がその程度だからだろう、と思ったが、もちろん口には出さない。代わりに、
『偶々だよ、偶々。カラーサークルと同じで偶々』
と答える。
『ふうん。で、それも中学校でだったわけ』
『まぁ、そんなところかな』
本当はその話を聞いたのはプラスチック加工工場勤務の年上の同僚、関口香織(呼称は『かえで』さん)からだが、おれは祥子の勘違いを正さない。
ところで祥子の説明が嘘でないなら、彼女はおれより年上だ。といっても香織さんよりずっと年下だが。
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