五人で写ったスナップ写真
り(PN)
1 くぬぎ
くぬぎは、おれの恋人。とても大切な恋人。愛してやまぬ恋人。
が、くぬぎは動けない。いつもベッドで臥せっている。咳はせず、溜息も吐かず、大人しく。喚かず、不平不満を漏らさず、粛々と……。
くぬぎの表情はとても豊か。笑みの愛らしさは類例がない。労いの横顔は華やかさを放つ。見つめる愛らしい瞳はおれだけを映す。湖水のように透き通る水晶体に。おれが彼女を見るとき、逆におれの瞳の中に彼女一人が映るだろう。精一杯自分をアピールするくぬぎ自身が伸びやかに。
世に何十億の人間がいようと彼女と交換できる者など一人もいない。おれにとって何処までも、何時までも、片時も忘れることができない存在。
だから、おれたちは静かに抱き合う。
彼女は甘噛されるのが好きだから、おれはその行為から試みる。右肩を下唇を左脚を右足を右腹を左背中を右胸を右瞼をおれは噛む。左肩を上唇を右脚を左足を左腹を右背中を左胸を左瞼をおれは噛む。優しく甘く。噛めば彼女の香りが匂い立つ。おれの鼻腔を刺激する。彼女の肌の弾力と艶が、おれの歯や舌を伝い、掌や頬に還り存在感を際立たせる。互いの存在を大きくする。が、うっかり興奮すると大変だ。くぬぎがそれについていけない。乱暴に腰を動かすバカなおれ。が、くぬぎは一言も文句を言わない。非難の目つきでおれを見返さない。ただ優しく、腰の動きを合わせられないという反応を見せるだけ。それしか想いを表さないのだ。もちろん想いは、おれに伝わる。おれは自分だけが愉しんでいたことに気づき、反省する。ついで行為を二人のものに還す。ゆっくりとゆったりと身を動かす。永遠と思える一瞬を永続させるため、単純な肉の喜びを崇高な精神の融合に転換させるため、おれは静かに興奮し、精を放つ。喜びと疲労をないまぜに、自分と彼女を一本の紐に撚り合わせるかのように。
出来得ることならば一日中、彼女とずっと愛し合いたい。が、生活があれば、そうもいかない。朝早く、ベッドで掛布団に包まるくぬぎに別れを告げ、おれは工場に働きに出る。が、この時世、週五日続く仕事はない。おれが工場から貰えた仕事日は、たった二日。けれども、それで感謝せねばならないのは当然のこと。
以前、フルタイムで働いていたとき、おれが勤める工場は寮を持つ。寮といっても、古びたマンションの数部屋だが。階も広さも違うワンルームと夫婦用。当然のように、おれとくぬぎはワンルームの方に住む。が、会社の危機で寮が売られる。おれとくぬぎは生活する場所を探さなければならなくなる。
おれとくぬぎに広い場所は必要ない。一間あれば十分だ。けれどもプライバシーは重要だ。どうしても守る必要がある。おれ自身は気にしないが、くぬぎが酷く気にするから。口に出すことはないが、薄過ぎる壁の部屋は嫌いなのだ。目を見開きつつ嘆願することはないが、窓の外を頻繁に人影が行き来するのは厭なのだ。結果、おれたちは夕景がきれいな高台のワンルームマンションに引っ越す。おれたちのような貧乏人には法外な家賃を見返りに。
おれたちの部屋に大きな荷物は殆どない。くぬぎが臥せるベッドと二人掛けのソファくらい。あとは卓袱台代わりのテーブルと洗濯機、小型冷蔵庫。テレビなどの家電製品とステレオデッキ、CDラック。最後のCDラックは、身長百八〇センチのおれの胸まである大型だが、これはくぬぎが音楽好きのため。おれ自身はどんな音楽が好きなのか、自分で良くわかっていない。ただし、くぬぎが聴く曲は、すべてすんなりおれの耳に入る。が、そのくぬぎが聴く曲は節操がない。ジャズとオペラと演歌は少ない。ロックとクラシックと邦楽が多い。携帯/スマートフォンやPCからダウンロードが日常的になるとCDの数は頭打ち。後にスマホに代わる携帯電話が固定電話が部屋から追い出し、大型PCもノートパソコンに入れ代わる。後者には大容量の小型ハードディスクが繋がっている。
新しい部屋が決まる少し前、おれは家賃を払うための仕事を探す。大学を出ているが、おれはバカ。だから知的労働には従事しない。というより眼中にない。引越し関連の労働者として契約採用されたとき、正直助かったとホットする。直に身体を動かすこと、フォークリフトを操ること、トラックを運転することに適正があると発見する。頑丈な身体を与えてくれた両親に感謝。実家の方を向き、手を合わせる。
おれはスポーツを何でもこなす。けれども団体競技は苦手。頭が悪いせいだろう。あるいは独り善がりで他人の気持ちを斟酌しない性格のせいかもしれない。個人競技はどれも得意。特に走りと泳ぎで秀出るか。どちらも道具が要らないスポーツだからかもしれない。オリンピックレベルならシューズや水着も立派な道具だが、おれの実力では関係ない。国体の地区予選優勝止まり。
引越し会社の担当主任から週四日来て欲しいと嘆願され、おれの休日が週一となる。初就職後、数年間勤めた工場を辞めなかったから当然か。理由は打算。時に優しく、時に厳しく、おれを育ててくれた工場従業員に対する礼儀や感謝からではない。あくまで生活を安定させるため。結果、くぬぎと一緒にいられる日が週一となる。おれたち二人にとって悲しい選択。が、おれとくぬぎの生活を将来的に担保するには、そうせざるを得ない選択だ。
もちろんくぬぎは、おれの決断に異議を唱えない。恨めしそうな表情を見せない。やんわりと非難することも、ついと目を背けることもない。けれども、おれには顔が見えない後ろ姿のとき、わずかだが淋しそうな仕種を見せる。胸の痛みを露わにしまいと、おれを見つめるとき、くぬぎはいつも笑顔なのに。だから、おれはくぬぎに済まなく思う。そんなおれの気持ちを、くぬぎがたちまち察すのだ。おれたち二人はいつもそう。互いの想いを口に出さず、忖度しながら日々を送る。
だからときどき、普通の人々の生活とは懸け離れているのではないか、という思いに囚われる。高級な『おままごと』に過ぎないのではなかろうかという自覚。たとえ一瞬でも自分がそう思ってしまうことが、おれを無性に悲しませる。けれども逆にその悲しみが、おれを普通の人間が生きる社会に結びつけているのかもしれない。
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