平仮名にルビ

ミーチューブ

第1話

平仮名にルビ            

ミーチューブ作品


一.

 愛してると言えば愛は伝わる。愛してないと言ってもそれは伝わる時がある。

殺す、と、棄てるが同義語であるなら、あいは独り占めできない物語と読むのが正しいかもしれない。

 行くあてを失くした一味の雨が雲間にいっせいに身を潜めたのは七月に入ってから二週目の木曜日。青く、海を透写してもいないのに果てのない青は、誰もが感じる青なのだろうか。目を閉じれば色などどうでもよくなるのに、人はどうしても彼方の空を仰いでしまう。

間に合った…

フーッと息つく間もなく、腋下から滲む臭いが一服の間を消しにかかる。地下鉄の警鐘を振りきり軽薄な光の轍を駆け抜けてきた先のレンタルスペースの一室で、中原雫の心臓をドクンドクンと何かが叩いた。悔恨と切迫感とが交差しながら激しさを助長し、そこに座る者のひとつふたつの咳払いによって彼女に注がれていた興趣が散漫になると、ようやく右心房付近から落ち着きを取り戻しはじめた。

儀をみて為さざるは勇なきなり――

ト音記号をなぞったような声に雫は意味をなさないと感じ、講習会場に居る意義を探した。生きてゆく為の資格取得ではあるのだが、自らの存在価値を探るにはまだ時間がかかりそうで、雫は己の体臭をヌッと嗅いだ。神経がまいりそうになると、いつもそうしている。

 色鉛筆の両端を削ったように教壇にスッと立っているのは、著名であると、そう自称する講師で、サイトの類にも確かにそう記されてはいる。マスメディアから三年前に忽然と姿を消した元テレビキャスター、竹下藤江の瞳は今在るものすべてを映そうとしていた。何を喋るかよりどう見られているかが重要なのだ、とでも言わんばかりに長い髪の隙間から裸眼を光らせた。六頭身を誇るボディバランスに帳尻を合わせる脚もまたスンッと引き締まっている。身長は雫とほぼ同等の百六十三センチで、理由こそ異なるも多忙で目尻にキリッとした意志を湛えている。垂直線と十一度をなす頬の仰角で魅惑の陰影をつくる。

 最終審査員の好みによってであるが、梅雨の晴れ間の美人コンテストにエントリーして、竹下が余所見をしているうちに雫が思わせぶりな流し目で委員長を刺したなら、王冠で前髪を潰す公算は高い。

 二人の相違を挙げるなら、竹下は週に三度社会人躾教室に講師としてパンプスを響かせ、雫は工事現場と夜の店で骨身を削る音を響かせているか。そして、髪の長い短いくらい。

 竹下は、雫の体臭にではなく音に反応した。雫のイビキと睡魔が冊子を机の下に落としたからだ。雫が目指す《WA種土木作業資格》取得となる必須カリキュラムには本講義が含まれていた。

「えーっと、中原さん、でしたか?」

 竹下の投げかけた声に、体臭が鼻孔から急に離れていき、雫は座っていた場所とは若干ズレる位置へ移され「は、はい」と心臓に負担のこない声音で応じた。第一声は清音を放ち、相手の出方を探るように次の詰問を待つことにしている。それは子供の頃からの一癖でもあった。

 論語を引用しながら、東日本大震災の被災地でボランティア経験があるという竹下が、避難所で足の浮腫みが酷くなった人に自らの弾性ストッキングを貸した際に履いていたものでいいかどうか迷ったが後にストッキングそのものよりも心遣いを感謝されて… といった件を雫は耳に入れてなかった。

「あなた、どう思われますか?」と問われ、雫は正解ではなく、竹下がいくつ答えを用意しているのかを探った。はぁ、と溜息をついた後で、ありあわせの答えを呈そうとする空間の狭間に竹下が楔を打ちながら入ってきて、そこなんですよ、そこ、答えを探す時間、意味を考える時間が惜しいってことなの、その間にドンドン、ドコドン人が死んでいくんだから、そうなんだから、みんなもっと考えなきゃ、だったかどうかを言われたか雫は後々にもはっきりとは覚えていない。「で、中原さんの職業はなんですか?」

 竹下は参加者ファイルを見ていなかった。アナウンサー時代もナレーション原稿をほとんど下読みしない。

「人夫…」

「えっ? 聞こえないので、もう一度」

「ニンプだって」雫は実際に吐き気を催しながら腹をさすった。竹下が、牛乳を口に含むだけで脂質に近い声が出せる女に見えた。

「妊婦さん? あらっ、だったら余計にね、お手本にならなきゃね。生まれてくる赤ちゃんのためにも。私もそう思うんです。母は強し。母、いえ女はいつ、どこで、誰といても強くなくっちゃ。それだけで価値!」

 雫は沈殿しはじめた体臭に黴臭が混じりだしたように感じてビクッと身を震わせたと同時に、講義終了を告げるガヴェルが鳴った。

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