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 ――ちゃん。お兄ちゃん」


 遠くで、声がした。


 ――ねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんってば」


 声には激しくエコーがかかっている。

 でも、その声が誰のものなのか、俺にはわかる。


 ――お兄ちゃん。起きてよ」


 それは聞き覚えのある、妹の声。

 はじめは遠くに感じられた声も、徐々に近づいてくる。

 まるでゆっくりと、こちらに向かって声が歩いてくるように。

 そして妹の声が近づいてくるに従って、深く沈んでいた俺の意識が、ゆっくりと浮上し始める。

 やがて――


 ――ねえ、お兄ちゃん! 起きてってば!」


 俺は妹の声を、はっきりと聞き取った。

 と同時に、俺の目が開く。

 でもピントがぼけた古いカメラを覗いているようで、視界は狭くてぼやけている。

 そんな視界の中で、ゆらゆらと、幽霊のような影が俺に迫ってくる。

 そして――


 ――パンッ!


 目の前で、何かが弾けた。

 クラッカーが弾けるような音。

 でもそれは、クラッカーの音じゃなかった。

 俺はピントのぼけた目を凝らし、音の正体を確かめる。


「やっと起きた? お兄ちゃん」

「ああ」俺は頷く。「悪い夢を見ていたから、調度、起こしてもらいたいと思ってたんだ。ありがとな」

「悪い夢? それってきっと、アレでしょ? お兄ちゃん。私が自殺した、あの日のこと」

「鋭いな、ハヅキ。やっぱりお前は、天才だよ」


 ようやく光に慣れた俺は、目の前にいる妹に焦点を合わせる。

 妹は手を叩いた後のようで、開いた両手を前に突き出している。

 俺は周囲を見回す。

 そして俺は、異変に気付く。

 手足が、動かない。

 どうやら俺は、パイプ椅子に座らされた状態で、両手を後ろに縛られ、両足はパイプ椅子の脚部にグルグル巻きにされたテープで固定されているようだ。

 でも異変は、それだけじゃなかった。



 なぜなら俺の目の前に、

 妹が、

 二人いるからだ。



「なあ、ハヅキ。俺はまだ悪い夢を見ているようだ。もう一回、起こしてくれないか?」

「夢じゃないよ。お兄ちゃん。これは、現実だよ」


 現実――ああ、確かにそのようだ。

 だってここがどこなのか、俺は知っている。

 白に統一された壁と天井。

 一つだけの大きな窓。

 その傍に設置されたベッド。

 そうだ。

 ここは病院だ。

 そして窓際のベッドで寝ているのは、俺の妹だ。

 それも、本物の妹。


 しかしだ

 本物の妹に、意識はない。


 学校の屋上から飛び降りたあの日、集中治療室に運ばれた妹は、頭に包帯が何重にも巻かれた状態で横たわっていた。

 一命は取り留めたものの、それ以来ずっと、目を覚ましていない。

 いわば植物人間状態だ。

 屋上から落ちた衝撃で、あのアインシュタインに匹敵するかもしれなかった貴重な脳が、著しく損傷してしまった。

 でも、生きている。

 植物人間状態になってしまっても、本物の妹は、まだ、生きているんだ。

 そして俺は、信じてる。

 いつかは目を覚ますことを。

 きっと目を覚ましても、かつての明晰な頭脳を発揮することはできないだろう。

 それでも、いいんだ。

 俺の妹であることに、変わりはない。

 変わりはないんだ!

 そこで寝ている妹は、毎年俺の誕生日にプレゼントをくれていた、愛おしい俺の妹なんだよ!


「おい、ハヅキ。これが何のマネなのか、教えろ」

「決まってるじゃない。お兄ちゃん」妹は笑う。でもその笑顔には、暗い影が宿っている。「お兄ちゃんは私を殺そうとしたんだよ。だから今から、おしおき

「何がおしおきだ! はやくこれを解け!」

「ヤダよ、お兄ちゃん。だってお兄ちゃんには、これから絶望を味わってもらうんだから」


 それから妹は、ポケットから何かを取り出した。

 そして取り出した物を見て、俺の背筋は凍った。


 妹がポケットから取り出した物――

 それは、サバイバルナイフだった。

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