記憶:妹のこと


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「ねえ、今あんた、どこ?」


 突然、オカンからそんな電話があった。

 スマホから聞こえてくるオカンの声は、相当、焦っていた。

 それは高2の冬。

 そのとき俺は学校の帰りで、TSUTAYAで予約していたゲームを買いに行く途中だった。


「何だよ? オカン。そんなに慌てて。また体重が増えたのか?」


 空は死灰のような雲に覆われ、ゆらゆらと雪が降り始めていた。

 今年初めての雪。

 辺りは静かで、たまに横で車が通り過ぎる以外、音は無かった。

 そんな静かな大通り沿いで、オカンの乾いた言葉だけが響き渡った。


「バカ」


 それを聞いて、俺は溜息を吐く。

 溜息は白い。


「じゃあ何だよ? オカン」


 俺の声に苛立ちが籠る。


「ねえ、ヨリ。今から言う病院に今すぐ行ってちょうだい。私もすぐ行くから」

「病院に何の用だよ。俺は健康だぜ。心はともかく、体はな」

「あんたじゃないのよ! ハヅキよ!」


 オカンが怒鳴った。

 それが空気の矢となって、俺の鼓膜に突き刺さる。

 俺は思わず耳からスマホを離してしまった。


「いきなり怒鳴るんじゃねーよ! うるせーだろ!」


 俺も怒鳴る。

 でもこの後に続く予定だった「ババア!」という言葉だけは、飲み込んでやった。


「ハヅキが何だって言うんだよ!」

「いい? 落ち着いて聞いてちょうだい。ヨリ」

「だから何だよ」


 そしてオカンは、声を振るわせながら、こう言った。


「ハヅキが、飛び降りたの……学校の、屋上から」


 それを聞いた直後、俺の手からスマホが滑り落ちてしまった。

 カタンという乾いた音が、大袈裟に鳴り響く。

 空から降る雪は、骨の灰に見えた。



 ――それから俺はTSUTAYAに寄らず、オカンに言われた病院に向かった。

 しかし病院に到着した時には既に、妹は集中治療室に運ばれた後で、俺は面会すら断られた。

 俺は仕方なく廊下で待たされ、気が気じゃない俺は、椅子に座ることすらせずにウロウロしていた。


 何でだ? 何でハヅキは、屋上から飛び降りたんだ?


 そんなことをしているうちに、オカンより先に親父が病院に着いた。その途端、


「ハヅキに、何があった!」


 俺の両肩を強く掴んだ親父は、そう叫んだ。

 無精髭が生えた親父の顔面が、俺に迫る。

 着ているワイシャツは皺だらけで、息も臭い。

 だから俺は、


「知らねーよ!」


 と言って両肩を掴まれた手を振り払い、親父から離れた。


「こっちが知りてーよ!」


 すると親父は急に空気が抜けたように、椅子に力なく座り込んだ。

 それから両手で顔を覆い、次に長い髪を何度も掻き上げる。

 俺はそんな親父にかける言葉を見つけることができない。

 言葉が見つからないのは、親父も同じようだ。

 でも、それは仕方ないことだ。


 だって娘が自殺したんだ。

 しかも“血の繋がった、実の娘”が。


 ここで説明しておかなければならないか。

 親父は、確かに俺の親父だが、血は繋がっていない。

 どういうことかと言うと、オカンは昔、俺を産んだ後に離婚して、今の親父と再婚した。

 その親父もオカン同様、バツイチで、既に娘がいた。

 その娘が、俺より歳が二つ下のハヅキだった。

 だからオカンと親父が再婚したことで、俺とハヅキはこの家庭で合流した。


 ここまで言うと、もうわかるだろ?

 そうだよ。

 俺とハヅキもまた、血が繋がっていないんだ。


 同じ家族だけど、全然似ていない。

 見た目だけじゃなくて、中身もだ。

 俺は頭が悪いが、ハヅキはズバ抜けて頭が良かった。

 それはクラスで学年トップとか、そういうレベルじゃない。

 親父の計らいで学会に論文を提出し、その論文が科学専門雑誌に掲載されるほどだ。

 しかもその論文がハンパなく凄くて、俺にはよくわからないが、これまで光ファイバー上でしか通信できなかった量子ネットワーク、それに必要な「量子もつれ」をワイヤレス上でも維持できる画期的なアイデアが論文に掲載されていたそうで、論文発表後にインドのIT会社である《Q-TeK》が多額の投資を行い、僅か一年足らずで量子Wi-Fiの実用化が実現した。

 そして量子Wi-Fiは一気に普及し、今じゃ《ユニバース・リンク》と呼ばれるIoTプラットフォームによって、全てのモノが量子ネットワークによって繋がっている。

 もちろん、そのアイデアを提唱したハヅキは一躍有名になり、世界中のマスコミが取り上げたことで時の人となった。

 しかも、そのときのハヅキの年齢は、わずか7歳。

 小学1年生だぜ。

 ぶっ飛んでるよ。

 そんなスゲー奴が、いきなり俺の妹になったときは、さすがに困ったよ。

 クラスの連中からは羨ましがられるが、バカな俺と超天才の妹との関係は、いわば水と油。

 碌に口も聞けない……っていうか、俺は妹に何を話せばいいのかさえわからなかった。

 きっと妹のことだから、俺が喋ることなんてチンパンジーのジェスチャー程度でしかない……そう、思っていた。

 だからはじめのうちは、妹と家にいても、会話することなんて滅多になかった。

 ちょっとすれ違うことがあっても、妹は俺をしばらく見つめた後、背を向けてどっかへ行ってしまう。

 そんな日々がしばらく続いていたのだが、ある俺の誕生日に、変化があった。

 両親は俺の誕生日なんて毎年すっかり忘れてしまっているから、俺ははじめから誕生日プレゼントなんて期待しちゃいなかった。

 が、なぜか妹は、俺にプレゼントをくれた。

 それはファンシーな包装紙に包まれ、可愛いリボンで装飾された、小さな箱だった。

 わずか7歳にして量子Wi-Fiの基礎を築いた天才少女、もしかしたらアインシュタインの頭脳に匹敵するかもしれないスペシャルな妹から何が手渡されるのかと思って、俺はドキドキしながら、その小さな箱を開けた。

 すると、その中に入っていたのは、クッキーだった。

 でも、ただのクッキーじゃない。

 スーパーや高級デパートに売っているものじゃなくて、それは、世界にたった一つしかないものだった。


 そう。

 それは妹の、手作りのクッキーだった。


 それを見て、俺は凄く嬉しかった。

 だから、お礼を言いたかった。ありがとうって。

 なのに、妹はプレゼントを渡してさっさと部屋に籠ってしまった。俺がお礼を言う前にだよ。

 でもそれから毎年、妹は俺にプレゼントをくれて、その度に、俺はすぐ部屋に逃げてしまう妹にお礼を言いそびれてしまっていた。

 そんなシャイで愛おしく思える妹だけど、そういった態度は俺に対してだけのようで、それ以外では、あいつは部屋に籠って自分が考案した量子Wi-Fiで世界中と繋がり、いろんなビジネスをやっていた。

 英語も堪能で、顔立ちも良かったから、ビデオ通話アプリを使った交渉も得意だったのかもしれない。

 その中で《Q-TeK》と共同開発したVRMMOFPSゲームが、『THE WAR LEFT -残された戦争-』なわけなのだが――


「――ヨリ!」


 病院の廊下で、オカンが俺の名前を叫ぶ声がした。

 オカンは白いスーツを着て、セミロングの髪にはパーマがかかって、化粧も濃い。

 そんなオカンがヒール底で床をカンカンと煩く鳴らしながら、俺に走り寄ってくる。

 そして、


「ハヅキは?」


 と、これまた親父と同じように、俺の両肩を強く掴み、叫んだ。

 強い香水の匂いが鼻腔を刺す。

 しかし疲れ始めていた俺は、


「知らねーよ」


 と力なく答えるだけだった。

 それからオカンは椅子に座る親父に視線を移し、


「ねえ、どうして、こうなったの?」


 と言った。

 だが親父は相変わらず俯きながら、長い髪を掻き上げる仕草を繰り返すだけだった。

 するとオカンは項垂れ、大きな溜息を吐いた後、


「あんたのせいよ」


 オカンは親父に言った。

 それを聞いた親父は顔を上げ、


「何だと?」


 と言った。


「何で俺が悪いんだ?」

「あんたの娘でしょ?」

「お前の娘でもあるだろ!」


 親父が椅子から立ち上がる。


「あの子には私の血が流れていない。だから私に懐かないし、信用もしてない」

「それはお前が悪いことだろ! ハヅキと距離を近づける努力をしたのかよ! だいたい東京なんかで働いてるから――」

「じゃあ何? 私に仕事を辞めろって言うの? あんたの給料だけじゃ、家は建てられなかったわよ!」

「だったら出てってやるよ! それでハヅキが戻ってくるんだったらな! その代わりハヅキがビジネスで儲けた資産は、俺が引き継ぐからな! 知ってんだぞ! ハヅキの資産をかすめて、お前がブランド物を買ったり、贅沢しているのをな!」


「止めろよ!」


 俺は叫んだ。

 叫んだと同時に、一筋の涙が、俺の頬を伝った。


「止めろよ……」


 そんな俺を見たからか、両親の喧嘩は終わった。。

 終わったが、大事なことは、まだ終わっていない。

 そうだろ?


 集中治療室の、ドアが開いた。


 そこから、両腕の肘までが真っ赤に染まった医師が出てきた。

 医師の両腕を真っ赤に染めているもの。

 言うまでもないが、それは妹の血だ。

 俺の傍に立っていた親父の体が、ふらつくのがわかった。

 それから医師は、俺たちに集中治療室に入るよう促した。

 そこには妹がいる。

 わかってる。

 でも俺たちは、すぐに足を動かすことができなかった。

 三者、いろんな思いがあったと思う。

 その中の一人である俺は、怖かった。

 飛び降り自殺した死体なんて、見たくない。

 しかもそれは、血が繋がっていないとは言え、俺の妹なんだ。


 俺の背中が、ポンと叩かれる。


 叩いたのは、オカンだった。

 覚悟を決めろ――無言でそう言っているのがわかる。

 俺は無言で頷く。

 そして決める。覚悟を。

 それから俺たちは、静かな集中治療室に向かった。


 しかし、そこにあったのは――

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