第22話 湯けむりの中

 

 

 

 酒は百薬の長、なんて言葉がある。

 適度に飲めば、酒はどんな薬よりにもまさる。そんな意味だったと記憶している。


 一方で、こんな言葉もある。薬も過ぎれば、毒となる。

 度を過ぎれば、良い物も害になるといった意味だ。過ぎたるはおよばざるが如し、って事だな。


 総じるに。昨夜の出来事は、こういった次第だと、思うのだ。

 百薬の長が過ぎて、酒が百毒の長に化けて牙を剥いた、と。


 いや。単に、そう思いたいだけだな、俺が。

 昨夜のアレは、酒に呑まれた故の過ちであったと。俺の本心から望んだ事では無い、と。

 そうでなければ、自分の理性とか倫理とかいった具合の良識をつかさどる部分に、これからは信用なんて出来なくなってしまうから。

 ていうかもう既に、俺の中での信用も信頼に対する評価は、株価に例えりゃ大暴落のストップ安だ。紙屑だ。ちり紙にも劣る。


「はぁ……」


 熱いシャワーの雫の中に、溜め息が消えていった。

 自分の下劣さを思うと、ついこぼれてしまうのだ。そんな資格も、俺には無いってのに。


 俺は昔から、姉の事は『姉』だと思って来た。これに間違いは無い。

 そしてあの連休の最終日。姉は俺を大切な家族だと言って、涙を流した。本気の涙だった。

 その事がたまらなく嬉しくて、俺は泣いたんだ。それなのに、そんな姉を、俺は……。


「はぁ……」


 姉は、俺が目を覚ました時には、リビングにその姿は無かった。時計の針は、午前四時を少し過ぎていただろう。

 起き抜けの頭で、姉と顔を合わせずに済んだ事にほっとしたのを覚えている。

 夜も開けきらぬ早朝のリビングは、昨夜の蛮行が夢か幻であったかの様に、綺麗に片付けられていた。俺の身体の汚れ以外は。きっと、姉が始末してくれたのだろう。あんな事をした上に、その後始末までさせてしったとか、ホントにダメダメだ。

 現場が綺麗になっていたからと言って、もちろん俺がしでかした事は、夢でも幻でも無く。致した事は、純然たる事実である。

 その証に、リビングのテーブルには、一枚のメモが姉の筆跡で残されていた。『シャワーでも浴びて さっぱりしてきなさい』と。

 その言葉に逆らう事なく、こうしてシャワーを浴びているのだが。まったく一向に、サッパリなどできやしない。

 息子ジュニアの周りにこびり付いていた白くて一部が赤い昨夜の残滓は、お湯に流して既に排水孔から旅立っていったが、心の方は晴れそうにも無い。


 俺の身体が、覚えてしまっているのだ。姉の感触を。声を。表情を。

 それらが思い出される度に、自己嫌悪におちいっているのである。



「はぁ……」


 すでに何度目かも知れなくなった溜め息を零し、そろそろ上がろうと、ハンドルを回してシャワーを止めた。

 その時だ。浴室の曇りガラスの填ったドアが開いたのは。

 その音に振り返った俺の目に映ったのは、昨夜にさんざん絡んだ姉の裸体で。


「え、な……え?」


 いきなりな事に対応できずに居ると、姉は「久しぶりに、一緒に入りましょ」と言いながら俺に近づくと、平然とシャワーを浴び始めたのだった。

 

 

 

 

 

 

「ふぅー……。たまにはこうして、朝からお風呂もいいものよね」


「……ああ。そう、だな」


「こうしてお風呂を一緒にするのは、いつ以来かしら」


「……ああ。ひさしぶり、だな」


 湯船に浸かりながら、同じように並んで寛ぐ姉の言葉になんとか上部だけの同意を返したが。正直、俺は気不味くてそれどころでは無い。

 なんだかんだと姉に言いくるめられて、結果としてこんな事になっているが。やはり、無理にでもさっさと出て行くべきだったか。


 そんな事を考えていていた僅かな沈黙の中を、姉の真剣な声色が滑り込んで来た。


「後悔してる?」


 酷く端的な言葉だが、この状況で『なんの事?』などと問い返すほど、俺は察しが悪くは無いつもりだ。

 今ここで姉が聞くとすれば、昨夜の事しかないだろう。


「それはもう、盛大にしてるよ」


 こう答えるのが、正解かどうかは判らない。やってしまっておいて、間違いでしたなんて言われたら、余計に傷付けるかも知れない。

 それでも、せめて嘘は吐きたく無かった。

 誠意とかなんて上等なものでは無い。ただのワガママで、だ。


 昨夜から何度も、自分はこんなにも身勝手だったのかと、驚いている。

 もう少し自重のできる人間だと、自分では思ってたのに。


 俺が自己評価を下方修正している一方で、姉は意外な事を口にした。


「そっか。うん、それは良かった」


「……は? 何で、良かったなんて事になるんだ?」


 思ってもみなかった姉の言葉に、そう問い返せば、


「だって、私とお揃いだから」


 と、悪戯な微笑を浮かべた。

 その顔に一瞬見とれてしまったが、慌てて気を取り直して、その言葉の意味を考える。が、答えは出ない。


「……オソロイって、何が?」


「あぁ、お揃いってのとは、少し違うかな。この場合は、『お互い様』が適切、かな。もしくは、似た者同士」


 お互い様? 似た者同士? どこが?

 言い直された言葉も、やっぱり腑に落ちない。


 俺が昨夜にしでかしたあんな独善的な事を、姉からされた覚えなんて、無いのだから。


 そんな俺の考えを察してか。姉は、どういう事かを、詳しく語り出した。


「……二十年前。私は私の感情に任せた我儘で、あなたを歪めてしまったのよ。そうする事が当たり前で、自然な事だと思って。

 あの頃の私は……いいえ、つい最近までもそうだったわ。私は、あなたの歪み果てた姿を目の当たりにするまでは、自分が全て正しくて、何でも出来ると思っていたの。実際に、やろうとして出来なかった事は何も無かったし、間違った解答を出した事も無かった。

 だからあなたの事も、自分の思い通りにしようとして。正しい方向に『直そう』として……。

 そうして私は、あなたの心に手を加えた。手を加えてしまったのよ」


 感情を廃して客観的な、何かに懺悔てもしているかのような姉の告白は、しかし俺にとっては、よくわからない話で。


 俺の、心? 魂や肉体に封印を施したってのは昨日聞いたと思ったけど、それとは違うのか?


「えっと、心をどうこうされたとか、覚えが無いんだが。

 昨日の夜……あー、その、ああなる前に聞いた話とは別だったりするのか?」


 昨夜の情事を思い出して軽く動揺する俺とは違い。姉はその事には何も思う事が無いのか、淡々と会話を続ける。


「昨日の晩に話した事は、全てじゃ無いのよ。核心部分は、まだ何も言っていないの」


「核心……? って事は、だ。昨日の話もタイガイだったのに、そこからさらに奥があるって事か」


 もうね。俺の過去は、いったいどんだけの秘密のベールで包まれてるのかと。過剰包装もいいとこだっての。


 独り言ちたつもりで、半ば呆れていると。俺の言葉を拾って、姉は「そうなのよ」と自重気味に呟き、続きを話し始めた。


「あなたが刀自様のところへ行く前に、私にお願いして来たその時に、私はあなたの心に、手を加えたの。そうすれば、全てが上手く行くと思って。

 本当に、愚かな女よね」


 んー、姉が愚かな女かどうかは、横へ置いておこう。今の俺には、誰かを愚かと断じるなんて無理だし。


「それってさ。姉さんが俺に何かをしようとして、それが失敗したから、俺は刀自様のとこへ行った。そういう事か?」


「いいえ、違うわ」


 あ。違うのか。なら、どういうことだ?


「私は失敗しなかった。だから私は、あなたへ『刀自様にお願いしなさい』って言ったのよ。それで諦めると確信していたから。

 でもあなたは、諦めなかった」


 んー? どういう事だってばよ?

 姉は成功したのに、結果は失敗している。訳が分からん。トンチか? ナゾナゾか?

 ただ、故意か過失かは判らんが、姉はこのに及んでも、一番肝心そうな事を口にしていない。

 そのせいで話が回りくどくなっているのは、何となく感じているのだから、それが判れば、全ての話が繋がる、か?


「……なぁ。結局、俺の心に手を加えたってのは、具体的に何をしたんだ?」


 姉へと視線を向けながらそう問うと、半ば髪に隠れた横顔からでも判るほどに、姉の顔が強ばった。

 その様子に、俺はどんな事をされたんだと、こちらまで顔が強ばる。


 一つ、二つ、と深く呼吸をしてから。姉はそれを、確かに告げた。俺の心に、どう手を加えたのかを。


「私は、消してしまったのよ。あなたの、ユスティアへの愛情を」

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