第5章 八月三十一日

 「葉月、遊ぼうよ!」

どこからか取り出した麦わら帽子を被り、日向は外へ飛び出した。

夏休みは残り五日もない…もうすぐ日向と会えなくなる。

その小さな影を…水色のたなびくリボンを追いかけ、僕も外へ飛び出した。


 残りの日が過ぎるのもあっという間だった。

そして八月三十一日の夕暮れ、また向日葵畑の中心で二人きりになった。

僕は一輪の向日葵を持ち、日向は麦わら帽子を被った姿で。

「葉月!今までも、これからも、ずっとずっと好きだから!」

日向が叫ぶ。

「日向…僕も好きだ!ずっと…日向の分も幸せになるから…待ってるから…」

葉月が叫ぶ。

秋の少し冷たい風が、僕たちを撫でていく。

濡れた頬にはそれが少し痛かった。

「泣かないでよ葉月ぃ…私の泣き虫が移っちゃったんじゃないの!」

涙でくしゃくしゃな日向。

「ハハハ…そうかもしれないな。泣き虫になっちゃったよ…。もう絶対忘れないから…日向ぁ…!」

ワンワンと声をあげて泣く僕。

そんな僕を胸にうずめさせ、優しく抱いてくれる日向。

一番泣きたいのは日向のはずなのに。

どうして今まで日向の事を忘れていたんだろう。


「ほら葉月、顔あげてよ!最後くらい、笑ってよ!」

いきなり印象の変わった声…顔を上げると、およそ高校生の姿の日向が居た。

さっきまでと同じ格好…純白のワンピースと麦わら帽子。

彼女が事故に遭ってなかったら…こんな姿だったんだろう。

「うわー、酷い顔!最後にこんな顔見て逝くんじゃあ呪われちゃうよ!」

「うるさい、だったら逝くな。…幽霊になったら僕に憑りついてくれよ。」

そう言うと僕は、彼女のワンピースの肩紐に向日葵を差した。

家を出る時はしおれていたけど、いつの間にか満開になっていた。

「馬鹿…ずっと持っててくれたんだ。心のどこかでは覚えててくれたんだね。」

微笑む彼女の頬に一筋の涙が流れて行った。


「あーあ、葉月も案外イケメンになっててびっくりしたよ!」

肩をくっつけて並び、手を繋ぎながら空を眺めていると日向が口を開いた。

「僕だって、まさか将来の嫁がこんなにかわいいだなんて思わなかったよ。」

「何よ、今まで忘れてたくせに!…アハハ!」

僕の言葉に怒り、そして笑う…とても心地の良い笑い声だ。

八年前もこうして、何となく幸せな時間を過ごしていたんだ…。


「あはは…はぁ…あの頃の私はずっと夢見てたなぁ…大きくなった私たちでショッピングセンター行ったり映画見たりさ。葉月の家…まだ行った事ないけどお泊りしたり…イチャイチャしてみたりさ。もう未練しかないよ…」

涙を流しながら…止められないままにそう言う日向。

「僕もそうだよ。あの頃は頑張って日向を養おうって思ってた。でもあの事故でさ…泣いてるおばあちゃん見て、僕は凄く悲しかった。忘れようとして…忘れてしまった。恋人が死にそうだってのに目をつむる僕はどうかしてたよ…あの頃の僕は凄く未熟だったよ。

僕もずっと涙が溢れて止まらない。


 日向が事故に遭ってから、特に彼女のおばあちゃんが大変だった。

病院での様子…何も変わらない日向の容体を毎日電話で教えてくれた。

最初こそ希望のこもった声だったが、段々と生気が無くなっていっていた。

僕はきっと戻ってくると信じて、貰った向日葵の世話は毎日欠かさなかった。


 およそ一年が経過した初秋の事だった。

「日向ちゃんが…亡くなったそうよ。」

僕は信じられず、病院…葬式…何でもいいから行きたいとせがんだ。

しかし母は首を縦に振らなかった。

「『おたくの息子がたぶらかして、気分が高まった油断から事故に遭ったんだ』って…。そんな事を言う人たちなんだから、もう忘れちゃいなさい。」

おばあちゃんからの連絡も、その日を境に途絶えてしまった。

僕はそれが真実なのだと信じることしか出来なかった。

そして段々と記憶から日向は消えて行ってしまった。

だけど向日葵の世話だけは続けて…八年経った今、満開に咲いている。


 日が沈み、辺りは暗くなり…日向の体が少しずつ透け始めている。

「あーあ、もう時間みたい。私は行かなくちゃ!」

「日向は…まだ、生きているのか?」

「まだ病院で眠ってるけど…でも、もうダメみたい。最後に葉月に会いたいって強く思ったから…でも、これが最期の記憶なら幸せだよ。」

「ずっと一人で戦ってきたんだね…僕はそんな日向のことを忘れてたのか…」

「いいんだよ、私のことなんて忘れちゃても。八月の妖精…なんてね。むしろ私のワガママで葉月の夏休みを奪っちゃって申し訳ないよ。」

「忘れちゃいけない事を思い出せただけで、この夏休みを捨てた甲斐があったよ。僕の中で最も大切な人だからさ…。」

「ありがとう…思い出してくれた今でも、気持ちが変わってなくて安心したよ。」

日向の頬からとめどなく涙が溢れていき、地面に落ちると光の粉が舞う。

まるで彼女の魂が、少しずつ欠けていってしまうかのように。


 いよいよ日向の体を通して、向こう側の向日葵が見えるようになった。

「見送って、葉月。」「見送るよ、日向。」

お互いにそう呟き、一歩ずつ歩み寄る。

強く、しっかりと抱きしめ…唇をそっと重ねる。

最初の人と交わす最後のキスは、ほんのりしょっぱめの麦茶の味だった。

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