第6話

 初めはぺたぺたと無造作に触れていたが、やがて額から顎までを拭うように、何度も掌を上下させた。そして気づいた。僕の顔からも液体が噴き出している。


 僕は一瞬で、全身が凍りついてしまったかのような感覚に囚われた。しかし、掌をよく見ると、そこに付着していたのは赤い液体ではなかった。


「うわ! うわ、あ、あ……?」


 なんだ、汗か……。僕はようやく少しばかりの落ち着きを取り戻し、掌を白衣で拭った。


《これでヘッドギアの調整は終了です。対象者一七五名、生存者一六二名。亡くなられたお友達のためにも、頑張って学業に励みましょう》


 何? 『亡くなられた』って、僕たちの中から死者が出ることを想定していたのか? 僕は機械音声に対して罵倒を浴びせたくなったが、それは無意味だ。ポールはもう、死んでしまったのだから。


 その時、はっとした。


「レーナ? レーナ!?」


 僕は勢いよく立ち上がった。全身の痺れが一気に取れて、身体中の筋肉が再起動する。

 僕は椅子の隙間から、奥を覗き込んだ。同じ型式の椅子がずらりと並び、頭を押さえる者、這いつくばる者、座ったまま眉間に手を遣る者などが見える。

 僕がそうしてあたりを見回していると、


「ぎゃあああああああ!!」

「おい、どうした!?」

「こいつ、こいつ死んでるよ!?」


 だんだん死者の存在が皆の共通認識になっていく。

 レーナは? レーナはどこだ? この部屋にいる可能性は高い。どこにいる、レーナ……!


「レーナ!!」


 僕は大声を張り上げながら、半狂乱で椅子の間を駆け回った。


「レーナ!! 聞こえていたら返事をしてくれ!!」


 その時、女性の悲鳴が響き渡った。僕は急いで悲鳴の元へ駆けていく。そこには顔見知りの女生徒がいて、椅子に座った誰か人間『だったもの』の肩を揺すっていた。


「ちょっとどいてくれ!」


 僕が無理矢理、女生徒を椅子から引き剥がして見ると、


「レーナ!! レー……」


 レーナではなかった。ただし、状態はポールと一緒だった。血だまりに足を突っ込んでしまったが、気にする余裕もなく振り返る。いつの間にか、僕が無理矢理どかした女生徒はその場でへたり込んでいた。ショックのあまり、だろうか。

 

 悲鳴や驚愕の声は、すでにあちらこちらで上がり始めている。


「おい、おい大丈夫か!?」

「目を開けてよ!! ねえってば!!」

「死んだんだ、こいつは死んだんだよ!!」


 亡くなったのは、一七五名中十三名。レーナ、まさか十三名の方に含まれてはいないよな……?

 僕は手でメガホンを作りながら、レーナの名を呼び続けた。


 碁盤の目状に並んだ椅子の間を、僕は無秩序に駆け回る。『レーナ』という一つの、一番大切な単語を連呼しながら。その間には、血だまりや、それを見てパニックに陥る生徒たちの姿があちこちで見られる。


 何が起こっているのだろう。いや、それよりもレーナの安全が第一だ。

 僕は再び、ゼイゼイと荒い呼吸をした。膝に両の手をつき、腰を折る。僅かに顔を上げて、自分のいる列をざっと見遣る。と、その時だった。


「……!」


 先端のカールした鮮やかな金髪が目に入った。


「レーナ!!」


 僕は一気に、その金髪の少女の座席に向かって駆け出した。途中、何人かパニック状態の同級生を突き飛ばしたが、詫びる余裕はない。レーナ、どうか無事でいてくれ――。

 と念じた瞬間だった。


「うっ!」


 僕は見事に滑って前のめりに倒れ込んだ。周囲へ気を配る余裕がなかったのだ。


「ぐう……」


 綺麗に下顎を打った僕の視界は、足元の床に埋め尽くされた。

 ここはレーナの椅子の隣だ。もう目の前にレーナがいるはずだ。もちろん、僕の見かけた金髪の生徒がレーナであれば、だが。

 そこに広がっていたのは、真っ赤な液体。――ではなかった。何も零れてはいない。

 乾いた床に手をついて立ち上がり、僕は金髪の人物の座っている座席の肘掛けに両手をかけた。ヘッドギアが装着されたままなので、人物の顔の上半分は見えない。それでも、僕は直感できた。間違いなくこの人物はレーナだ。


「レーナ、生きてるか? 生きてるんだろう!?」

「……」


 返答がない。気を失ったままなのか。もしかしたら、という最悪の事態が頭の中で組み上がる。しかし、彼女は息をしていた。それに、赤黒い液体の筋もない。生きてる。


「くそっ、どうやったら外れるんだ!?」


 あまりのもどかしさに、僕はレーナの被っているヘッドギアを殴りつけたくなったが、その内側にレーナの頭部が入っている以上、手荒にするわけにもいかない。

 ヘッドギアから座席の上に伸びているケーブルを引っ張ってみる。一本目。二本目。三本目。すると目の前に、タッチパネル式の立体映像が現れた。


「ヘッドギアのロックを強制解除しますか……? 当たり前だ!!」


 僕は必要もないのに大声を上げながら、『Y』、すなわちYESのボタンをタッチした。

 すると、カシャッ、と何かが軽く掠れる音がして、ヘッドギアが持ち上げられていった。その内側では、一人の少女がうなだれている。


「レーナ! やっぱりレーナだな!? 目を覚ましてくれ、僕だ、アルフレッドだよ!!」


 すると、顔をしかめながら、レーナは寝返りを打つように微かに顔を逸らした。


「レーナ!!」


 僕は彼女の頬を軽く叩いた。微かに瞼が動く。


「起きてくれよ、レーナ!!」


 今度は肩を揺する。すると、口元からすっと息を吸う音がした。次の瞬間、何かに驚いたかのように、レーナの目がぱっちりと見開かれた。


「ああ、レーナ、よかった……。苦しくはない?」

「アル……? 私、一体……。ぐっ!」


 レーナは突然、前のめりに腰を折った。慌てて場所を空けると、彼女はすごい勢いで咳き込み始めた。


「大丈夫か!?」


 僕は屈み込み、彼女の両肩を押さえた。しばらくの間、レーナの咳き込む音が響き渡った。


「げほっ、けほっ、ぐふっ……」

「大丈夫だよレーナ、もう心配いらないよ」


 僕は肩を離し、ゆっくりとレーナの背中を擦った。その時になって、ようやく自分が落ち着いてきたのだと自覚する。


「アル……くっ……何が、あったの?」

「僕にも分からない。突然酷い頭痛がして、それがピッタリ止んで、そうしたらポールが――」


 しまった! あまりにショッキングだったために、口をついて出てしまった。


「ポールがどうかしたの?」


 ポールの最期を知らせるということが、レーナにとってどれほど残酷なことか。僕のような鈍感な人間でもさすがに見当がつく。ついてしまう。

 突然黙り込んだのが、余計に注目を引いてしまった。咳き込むのが収まったレーナは、その大きな瞳で僕を見つめてくる。

 

 すると、周囲に気を配るだけの余裕ができたのか、


「ねえ、どうして皆こんなに騒いでいるの?」


 その時、一際大きな悲鳴がフロアを切り裂いた。


「ポール! ポールが!!」


 声の主のことは知っている。ポールのガールフレンドだ。


「ポール……」


 レーナはふらふらと立ち上がり、フロアの前方、座席の最前列に向かって歩き出した。


「ま、待って、ちょっと!」


 しかし、レーナは立ち止まることなく、すっと僕の手をかわして進んでいく。

 いずれ分かってしまうことなのだ。僕は引き留めるのを諦め、のろのろとついていった。こんな時に、彼女から目を離すわけにはいかない。


 僕たちはポールの座席の後ろから近づいていった。隙間から見ると、気を失った女生徒の姿が目に入った。友人たちに背中を支えられている。


「ねえ、ポールがどうかしたの……?」


 まだ頭がぼんやりしているのか、レーナは無感情な声でクラスメートたちに尋ねた。


「あっ、レーナ、あなたは見ない方が――」


 しかし、最早そんな言葉は届かない。僕はレーナに追いつき、彼女が倒れても大丈夫なように後ろで備えた。

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