第3話

「じゃあ、僕はこれで」

「俺もだ。また明日」


 ポールとケヴィンは、居住しているマンションが違うので途中で別れた。

 また、


「あ、あたし買い物していくから。それじゃ」


 と言って、フィンもまた道を外れて去っていく。


「う、うん、気をつけて」


 そう言って残された僕とレーナ。

 僕は少しばかり狼狽した。急に二人きりにされるとは思わなかったので、普段よりも緊張してしまったのだ。

 僕たちは足を進める。僕にあてがわれているマンションはレーナのマンションの前を通るので、ちょうど僕がレーナの送り迎えをする形になるのだ。そんないつものこと、だったのだが――。

 何故か、言葉が出てこない。セメントが喉に流し込まれたかのように。『何か』が言葉を堰き止めている。


「ねえ、アル」

「ど、どうしたの、レーナ?」


 するとレーナは突然足を止め、俯いたまま苦しげな声で語り始めた。


「まあ、ね。レーザー通信回路を使えば、話せるよね」

「突然どうしたの? まあ、話せるだろうけど」

「それに、今の技術ならすぐに会いに行けるよね」

「そうだね」

「……でも……」


 レーナはつま先を合わせるように足を動かし、顔を上げた。


「こうして毎日会えるのは、あと一週間だけだよね」


 僕ははっとした。

 レーナが、目に涙を湛えている。僕が驚いている間に、レーナの形のいい頬を透明な雫が滑り落ちていく。


「私、怖いの。アルと離れ離れになっちゃうのが、怖くて怖くて……。だって、私がこんなに好きな相手って、アル、あなただけなんだもの」

「僕だってそうだよ、レーナ」


 日差しがちょうど、僕とレーナを照らし出すように差し込む。その中心に向かって一歩、僕は踏み出した。レーナもまた、正面から僕へと歩を進める。

 僕の両手が、自然と意識しないままに、レーナの肩に載せられる。目を閉じたレーナに、僕はそっと自分の顔を近づけた。


 唇に感じる、潤いと温かさを持った柔らかな感触。

 これが僕の、ファーストキスだった。


         ※


 一週間後。

 僕はいつも通りレーナのマンションの入り口で待機した。レーナも、特にこれといった違和感もなく歩み出てくる。


「おはよう、レーナ」

「おはよう、アル」


 陽気に手を挙げ、挨拶を交わす。今は、オルドリンの時刻でいうと夕方だった。既に空の大半は群青色に染まり、僅かに見える太陽が美しいコントラストを成している。ただ、飽くまで僕たちは地球時刻で活動しているから、これからが登校時間だ。


「今日が、最後だね」


 僕は何気ない風を装ってレーナに語りかけた。


「そうだね」

  

 おや? レーナにしては短い返答だ。いつもは何かと話しかけてくれるはずなのに。

 すると、レーナは突然立ち止まった。左右を見渡し、人影がないことを確かめる。


「どうしたんだい、レーナ?」


 こちらに振り返った時、やはりレーナの顔は紅潮していた。


「あの、えっとね? アル……」

「どこか体調が悪いのかい?」

「えっ? あ、違う、違うの」


 ぶんぶんとかぶりを振るレーナ。


「あの……」

「うん」

「この前は突然みたいに……キ、キスしちゃって、ごめんね」

「あ」


 僕もようやく、自分の頭に血が上ってくるのを感じた。


「あんまりいきなりだったよね、泣き出すなんて卑怯だよね、それも、一番好きな人の前で……」

「そ、そんなことないよ」


 レーナはサファイアのように輝く瞳を真ん丸にして、僕を見つめ返した。


「その、僕も嬉しかった。レーナとの距離をまた縮められたような気がして」

「本当? 迷惑じゃなかった?」

「迷惑なもんか!」


 僕は大げさに腕を広げてみせた。迷惑だったら、その場で拒絶したはずだ。


「これから別れなくちゃいけないってことは分かってる。レーナがそれを怖がっていることも。でも、大丈夫だよ!」


 僕は何とか笑顔に見えるよう、口の端を歪ませた。


「この前、君は自分で言ったじゃないか、会おうと思えば、いつでも会いに行けるって」

「うん……」


 自信なさげなレーナを前に、今度は僕が前後左右を見回した。やはり夜に向かっているためか、それともここがマンションの間の裏道だからなのか、人通りはない。

 どうか、レーナに自信を持ってほしい。その一心で、僕はレーナを抱きしめた。


「!」

「ごめん、いきなり。でも、僕の気持ちを素直に伝えるには、これしかないと思ったんだ。――大好きだよ」


 レーナは僕の肩に顔をうずめる。やがて、嗚咽を漏らし始めた。

 僕はずっとレーナを抱きしめていたかったけれど、誰かに見られていないとも限らない。それに第一、今日遅刻するわけにはいかないのだ。僕は、体感時間で十秒ほど数えた。


「落ち着いたかい、レーナ?」


 そっとレーナの両肩に手を載せ、軽く押し返すようにして離れる。


「うん……。ありがとう、アル」

「どういたしまして」


 僕は姫に仕える執事のごとく、腰を折って片手を腹部に当てるポーズを決めた。


「アルには似合わないよ、その格好」

「失礼いたしました、お嬢様。……なんてね」


 僕が顔を上げると、そこにはレーナの満面の笑みが待っていた。


「おっと、のんびりしすぎたかな? 卒業式まであと十五分だ。急ごう」

「うん!」


 レーナは大きく頷き、僕と肩を並べて歩きだした。


         ※


 校門前で、僕たちは足を止めた。


「何だ? 一体……」


 学校全体が騒がしい。学校『全体』といっても、今日登校しているのは僕たち三年生だけなのだが。

 三年生の教室の並ぶ三階は、窓の外から見ても皆が慌てふためいているのが見てとれた。


「何なの、アル?」

「さあ……。卒業式の手順が狂った、とか?」


 気楽な調子を装う僕。しかし、何とも言えない不安感は僕にも感じられた。


「行こう、レーナ」


 僕はレーナの手を取り、グラウンドを横切って校舎へと向かった。


 一階。昇降口にて。

 あたりはしん、と静まり返っている。とは言いつつも、よく耳を澄ませば、上の階からガヤガヤとくぐもった声や足音が聞こえてくる。

 僕は特に意に介する素振りを見せずに、外履きをシューズに履き替えた。一方、レーナは恐る恐るロッカーに手をかけている。


「きっと何でもないことだよ。レーナ、怖がることないって」

「う……ん」


 レーナが怯えているので、僕は


「ほら」


 そっと手を取って階段まで導いた。

 そして辿り着いた僕らの教室、三年G組。さすがにここまで来ると、皆の混乱が自分の身体に染み込んでくるように感じられた。皆席を立ち、教室のあちこちでグループを作って話し込んでいる。

 そんな中、


「ポール!」

「ああ、君たちか」


 ポールは振り返り、僕とレーナを視界に入れた。


「これを見てくれ」


 再び背を向けるポール。見つめているのは、教室前面のホワイトボードだ。


「何だ? 『しばらく着席して待機してください』……?」

「まあ、誰も守っていないけどね」


 それで待ちくたびれた生徒たちが、席を立って雑談したり、これはどういうことかと話し合ったりしているのか。


「ポール、何が起こってるのか、見当はつくかい?」

「そうだな……」


 ポールは顎に手を遣った。


「まず先生方が、何の理由もなく遅れてくるわけはない。それに、このホワイトボードの文字は、今朝になってから書かれたものだ。油性マジックの渇き具合で分かる」


 この時代に手書きのメッセージとは、古風なものだ。


「じゃあ、先生方はもう到着して、このホワイトボードに書置きをして姿を消した、ってことか?」

「そのようだね」


 その時だった。

 数名の男子が、ホワイトボードの前を横切って教室を出ようとしていた。


「君たち、どこへ行くんだ?」

「ああ、ポールか。俺たちは職員室にあたってみようと思ったんだが、この学校、職員室の場所がよく分からないだろ? だから皆であちこち探してみようと思ってな」

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