「影」
無音
「影」
最初に「それ」を見たのは学生の頃。
当時は昼夜逆転の生活をしていて、その日も昼過ぎまで寝ていた。
ちょうど眠りが浅くなる周期だったのかもしれない。
普段なら多少の物音では目を覚まさないのだが、
その時はなぜか自分の周囲が気になった。
目を閉じたまま、耳を澄ませてみる。
ギュッ、ギュッ。
2ヶ所で布団が沈み込む感覚。
横向きに寝ている俺の脚を、ちょうどまたぐような位置……。
当時の俺のアパートは、6畳一間の部屋の中に、こたつに衣装ケース、カラーボックスに布団で畳がほとんど埋め尽くされていた。
実際に部屋の中を人が動こうとすれば、そのようになるだろう。
ギュッ、ギュッ。
気配が移動する。
俺の腹をまたいでいる。
誰だ……? 鍵を閉め忘れただろうか?
ギュッ。
また動いた。
俺の顔の目の前。
薄目で見ようとした。
ジーパンの脚が見えた。
目線を上に動かす勇気はなかった。
目を閉じ、寝たふりをする。
気配は頭の上を過ぎ、また脚の方へ戻っていった。
どれくらいたったか……。
気づくと、気配を感じなくなっていた。
俺は体を起こし、玄関の鍵を確かめようとした。
なぜかひどく目まいがして、立ち上がれない。
四つん這いで布団から這い出て、いつも開けっ放しの引き戸の向こうを見る。
玄関横の台所のあたりに、文字通り「人影」がいた。
人の形はしているが、真っ黒で立体感がなく、輪郭もぼやけている。
それでも、「影」が流しの下の戸棚に手を伸ばしているのがわかった。
そこには包丁が──!
そこで俺の意識は遠のいた。
意識が戻ったとき、体は布団の中にいた。
再び起き上がる。
目まいはない。
あの人影も、どこにもいない。
玄関へ向かう。
鍵はしっかりと掛かっていた。
俺は、夢でも見ていたのか?
それから、数年が経った。
俺は就職のために引っ越し、そこでもアパートを借りた。
今度は11畳の広い部屋だ。
就職して数ヶ月は、朝起きて夜寝る生活リズムに慣れるのに苦労した。
そんな頃……「影」は再び、姿を現した。
明日も仕事だというのに夜更かししてしまい、床に就いたのは午前2時を過ぎたあたりだった。
もう少しで丑三つ時になる……などとは、このときは露ほども思っていなかった。
初めて金縛りを経験した。
頭ははっきりしているのに、体が動かない。
戸惑いながらも、何気なく部屋の引き戸に目をやった。
──開いている。
必ず閉めたはずの引き戸が。
その奥に広がる闇に、「それ」はいた。
「それ」はまたしても、台所へ向かっていった。
不意に、もやがかかるように視界がぼやけた。
次の瞬間、目に映ったのは、閉まっている引き戸だった。
そこから俺の意識は飛んでしまい、気づくと朝だった。
それからまた数日後……三度、「影」が現れた。
深夜、金縛りにかかったことに気づき、俺は目を見開いた。
枕元に「影」が立っている。
握った右手を、頭の横に持ってきているように見えた。
右手が何故か白っぽい。
──違う!
右手に光るものを持っている!
刃物だ!!
俺は、「影」の顔のあたりをにらめつけ、全身に力を込めた。
理屈ではなかった。
どうにかなるとも思っていなかった。
その時だった。
霧が晴れていくように、「影」は姿を消した。
それとともに金縛りも解けた。
辺りをゆっくりと見回す。
普段通りの薄暗い空間だけが、俺の周りに広がっていた。
それ以来、「影」は俺の目の前に現れていない。
最後に「影」を見てから、また数年が経とうとしている。
いったい、奴は何だったのか。
なぜ俺のところに現れたのか。
今度現れたら、直接聞いてみてもいいかもしれない。
答えてくれるとは、思えないが。
「影」 無音 @flies_pain
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