優香side

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 ――部屋の窓を開けると、美子が黒いビジネススーツで黒いパンプスを履き、颯爽とバス停に向かって歩いているのが見えた。


 私は未だにジーンズとスニーカーから卒業出来ないのに、スーツを着用していると立派な社会人に見えるから不思議だ。


 窓を開け、美子に声を掛ける。


「美子ー!おはよう!いってらっしゃい!」


「優香!おはよう!いってきます!」


 美子は大きく手を振る。

 朝の優しい日差しが、キラキラした美子の横顔を照らす。


 矢吹君に失恋した私は……

 腫れぼったい瞼を隠すように、顔の前で手を振る。


 本当はこんなことをしている場合じゃないってことはわかってるんだ。


 私も本来ならば内定をもらい、ビジネススーツに身を包み、企業の入社式に向かうはずだった。


 それなのに……

 失恋し一晩中泣いているなんて。


 まだ気分は学生のまま、社会人には成り切れていない。結局、スポーツクラブも退会し、四月以降のスケジュール表は真っ白だ。


 視界から美子の姿が消えても、感傷に浸っている私。階下から母の大きな声がした。


「優香、起きたの?ねぇ、そこにかめちゃんいる?」


「……かめなしさん?」


 そう言えば、いつも私の傍から離れないかめなしさんの姿が見えない。


「かめなしさん?あれ?どこ行ったのかな?」


 二階の部屋のドアを全部開け、クローゼットやトイレの中も確認したが、かめなしさんの姿はどこにもなかった。


 階段を降りると、母が庭の物置に至るまで捜している。


「ママ、どうしたの?そこら辺彷徨いてるだけでしょう」


「そうかな。朝ご飯まだ食べてないのよ。どこ行ったんだろう……」


 ――結局、夜になってもかめなしさんは戻らなかった。


「優香、もう真っ暗だよ。ご飯も食べないで、かめちゃんがいなくなるなんて。やっぱりおかしいよ。かめちゃんは食いしん坊なんだから」


「……そうだよね」


 あのかめなしさんが、朝も昼も食べないなんて、考えられない。


 窓の外に視線を向ける。

 すでに日は落ち、外灯が歩道を照らしている。


 こんな時間まで、家に戻らないなんて今まで一度もなかった。


「大丈夫かな……」


「ママ、大丈夫だよ。帰ってくるから」


 本当は、私も不安だった。

 春先は猫にとっては恋の季節で、今までプチ家出をしたことはある。


 でも、今年は……

 可愛い雌猫に恋をしている感じではなかった。


 だって、毎日毎日私に『好きだ』って、告白していたんだよ。


 それなのに、何処に行ったの?


 矢吹君に失恋して、私、寂しくて堪らないのに。


 どうして……傍にてくれないのよ。




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