手汗と夏木さんと登山
「はあはあはあ……しんどい」
山登りを甘く見ていた。高尾山はそんなに高い山じゃないし、ピクニック気分だったが相当甘かった。想像以上にのぼりが急で息がぜえぜえする。登れど登れど頂上が見えてこない。酸素が足りない。思わずその場にしゃがみこむ。僕の横をおばあちゃんが平気な顔で通り過ぎていく。なんとも情けない。まるで山の中にたたずむお地蔵さんのようだ。頂上でうまいものでも食べようとニヤついていた一時間前の自分をぶん殴りたい。
「おい、新一。大丈夫か?」
夏木さんに肩を抱かれ、山を降りた。30歳が60歳に抱えられて下山するなんて、本当に情けない……。
「もう12時か」
昨日の山登りの疲労で昼まで寝てしまったらしい。ふとんから這い出てトイレに座る。無事うんこを終え立ちあがろうとしたその時、事件が起きた。足がぷるぷる震えて立ち上がれないのだ。昔テレビで見た、生まれたての小鹿状態。一日経って筋肉痛が襲ってきた。歳を取ると筋肉痛が時間差でやってくるというのは本当だ。筋肉痛の時間差攻撃。あまりの痛さにトイレから出られない。
「新一の面白い写真があるんだけど、見る?」
そう言って夏木さんが会社のみんなに写真を見せて爆笑を取っている。何かと思って覗きに行くと、僕が高尾山でお地蔵さんと化した写真だった。完全に目が死んでいる僕の横をおばあさんが満面の笑みで山登りしている。これで終わる訳にはいかない。夏木さんに山にもう一度連れて行ってもらうようお願いした。
「懲りてもう来ないと思ったよ」
夏木さんはニヤリと笑った。
リベンジを誓って二回目の山登り。今回は山に入る前に入念にストレッチして、しっかり登山靴をはく。夏木さんのアドバイスに従い、ゆっくり歩き、体を山に慣らしていく。夏木さんが前でペースを作ってくれるので、とても歩きやすい。
難所の岩場がやってきた。ひとつづつ岩を手でつかみ登っていく。
「うわっ!」
汗で指がすべり、体がずるずる滑り落ちていく。
「新一、大丈夫か!」
体は止まらずそのまま平地まで落ちて腰を打った。
「いててて……」
危なかった。下が崖だったら一発アウト。リュックから手袋を取り出し、急いではめる。手汗で死ぬなんて絶対に嫌だ。
慎重に岩場を登っていくと、一段高い山の上から、澄み切った青空が広がっている。
「あー気持ちいい」
空気を思い切り吸う。山の空気は鮮度が違う。
「もうすぐ頂上だぞ」
夏木さんはそう言って最後の急な登りにアタックする。はあはあ。息が苦しい。だがここで止まるわけにはいかない。一歩一歩、ゆっくり歩を進める。顔を上げると頂上が見えてきた。だがもうすぐのはずが、なかなか頂上に着かない。目で見ると近そうでも、実際の距離はかなりあるのだ。
「痛っ」
突然足がつった。足にもダメージが蓄積されている。夏木さんから疲労回復のアミノ酸をもらい、再び立ち上がる。もう少し、あと少し。がんばるぞ、オー! と声をかけ合いながら、最後の急なのぼりに挑む。
「新一、先に行っていいぞ」
夏木さんはそう言って、頂上をゆずってくれた。バンザイしながら頂上の土をふむ。
「やったー!」
ついに頂上まできた。自分の足だけで登ってきたのだ。こみあげる達成感。空は上の方は青く、そこからだんだん薄い水色になっていく。はるか遠くには水墨画のような山々が見える。まるで絵画のよう。
「お疲れさま」
夏木さんが握手を求めてきた。手汗がバレる! と思ったが、手袋をしているので大丈夫だった。
「前回リタイアしたからもう来ないかと思ってたけど、よくがんばった。えらい」
師匠の言葉が胸にしみる。そして山頂で食べるカップラーメンは、普段の5倍うまい。
家に帰りすぐにシャワーを浴びる。風呂から出て体重計に乗ると、なんと一気に2キロもやせている。一日で2キロもやせてしまうなんて、山ダイエット恐るべし。登山は体全体を動かして相当エネルギーを使うから、一気に体重が減るのだろう。
一度登れてから自信がつき、気が付けば週一で夏木さんと山に登っている。総決算として挑むのが、今日の北岳だ。なんと日本で二番目に高い山で、標高差はメートルにも及ぶ。今までの登山の成果を発揮する時がきた。
頂上を目指し、ひたすら歩き続ける。ポツポツきたと思ったらあっという間に雨がザーッと落ちてきた。レインコートを雨がはじく。時計を見るともう4時間も歩きっぱなし。地面はぬかるみ歩きづらい。ぜえぜえ。じわじわと体力が削られていく。
「よいしょっ、よいしょっ」
雨ですべる岩を慎重に手でつかみながら登っていく。
「新一、大丈夫か?」
夏木さんが心配そうに振り返る。
「ちょっと、休みたいです」
「じゃあもう少しで目の前が開けるからそこで休もう」
木が生い茂った道を抜けると、雨は止み、一気に視界が開けた。
「絵はがきみたい!」
真っ青な空。地面には灰色の大きな岩がゴロゴロ転がり、黄色と紫の花が咲き誇っている。日本にこんな美しい自然があるなんて。山登りの不思議。へとへとなのに絶景を見ると疲れを忘れてしまう。
自然からパワーをもらい、ひたすら登っていく。しだいに陽は傾いていくが、上を向いて登っていく。
「うわ~」
最後の頂上へのアタック。マジかよ、ここにきて岩場かよ。重たい体を持ち上げ、最後の力をふりしぼる。
3193メートル、ついに北岳の頂上を制覇した。
「やったぞー!!」
時計を見たら登り始めてから8時間が過ぎていた。岩の上に登って空を見渡す。紫とオレンジが混ざった神秘的な空が360度広がる。しばらくその場にたたずんでいると、色々な思い出がよみがえってきた。早々とダウンした最初の山登りのこと、目も開けられない強風に見舞われたこと、足の力を使い果たして動けなくなったこと。そんな僕が今、3193メートルもある山の頂上にいるのだ。そう思うと涙が流れてきた。
山小屋に入り、夏木さんと晩ご飯を食べる。赤ワインを飲みながら、夏木さんは言った。
「どんなに高い山でも、一歩一歩進めば、必ずゴールできる」
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