第46話 大垣城開城

 三成ら西軍の諸将が大垣より関ヶ原に移動したのち、大垣城には三成の娘婿福原長堯を主将とし、熊谷直盛(豊後安岐城)、垣見一直(豊後富来城)、木村勝正(美濃北方城)、相良頼房(肥後人吉)、高橋元種(日向縣)、秋月種長(日向財部城)らを付し、合わせて七千五百の兵で大垣城を守っていた。


 福原、熊谷、垣見は三成が蟄居を命ぜられた際、彼らも処分を受けていたのだ。特に福原は三成の縁者であったから、最も重い処分を受けていた。福原は敵愾心に燃えていた。


 自分と直盛が本丸を守り、二の丸には一直、勝正父子、頼房が入り、三の丸には、種長、元種が守備していた。


 大垣城が築かれたのは、天文4年(1535)美濃土岐氏の一族宮川吉左衛門尉安定の時といわれているが、その後永禄3年(1559)氏家直元が城主となり、その時の城の拡張が行われたが、天正13年(1586)の大地震で城は全壊消失してしまった。その後、慶長元年(1596)伊藤祐盛が城主の時にようやく天守が築かれたという。


 享保5年(1720)に調査された際、本丸の堀の規模は、東堀40間(72m)、北堀17間(30.6m)、西堀22間(39.6m)、南堀6間(10.8m)と記録されている。天守閣は明治以降も残っていたが、昭和20年空襲により焼失してしまった。残っていれば、名古屋城とともに、国宝級として文化財登録していたであろう。


 話はそれてしまったが、東軍の水野勝成は西尾光教と曽根砦を守っていたが、三成らが大垣を去ったと聞くや、松平康長とともに、まず島津の陣にむかったが、やはりもぬけの殻であった。そこで、やはり大垣城を攻撃すべく、大垣城に向かった。まだ関ヶ原の決戦が生起する前である。

 水野と西尾は、大垣城に開城を求めるが、全く西軍は相手にせず、やむなく三の丸を攻め立てた。西軍の高橋と秋月は防戦したが、松平康長が攻撃に加わり、三の丸を放棄して二の丸へ移った。


 夜明け前の戦闘であったので、東軍は一旦戦闘をやめ、城外に退がりて休養をとり、さらなる攻撃に備えるとともに、家康に次第を報告していた。家康からは褒賞のことばを賜り、しばらくすると、東軍勝利の報せが勝成のもとにもたらされた。


 勝成はよし一気に攻めようと思ったが、ふと考え直した。

(待てよ、敵も関ヶ原の負けを聞けば、慌てずとも城はたやすく落ちるかもしれぬ。ここは様子を伺うこととしよう)

 と考え直し、

「陣をとき、曽根に戻る」

 と全軍に布告した。


 翌日、案の定、大垣城より連署が届けられた。相良頼房、高橋元種、秋月種長の連署があり、罪を許され、領地が安堵されるのであれば、城主らを殺害して帰順する旨が認めてあり、その旨井伊直政におとりなしくだされということだった。特に頼房は家康派であったが、大阪に着いた時は、西軍にならざるを得なくなり、直政に対して、やむをえず西軍に与しているが、本心ではないと誓約している。


 勝成は書状を井伊直政に届けた。直政は言い分を受け入れるとして、返書を送った。恭順の意を認められた頼房は、一計を案じた。


 垣見一直らに対し、三の丸の竹林が防戦の邪魔になるので、伐採したいから監督をしていただきたいと申し入れ、一直らはその言葉を信じて、三の丸の竹林に出向いた。そこに潜んでいたのは、頼房の手練れの兵であった。一直らが竹林に現れると、隠れていた数名が躍り出て、一直を斬り倒した。頼房は一直、直盛、木村父子の首を挙げてこれを恭順の証として勝成の元へ届けた。


 これで大垣は簡単に落ちるであろうと思った、勝成は恭順した頼房を伴い、大垣城の総攻めに入った。しかし、福原長堯は守り固くよく防戦し、東軍を撃退した。3日ようしても踏ん張っていた。


 家康にとっても山城で要害の佐和山城は落ちたのに、なぜ大垣城が落ちないのか疑問であったが、これ以上戦を長引かせるわけにもいかず、

「和議をもって降ろせ」

と命じた。


 勝成は禅僧を使者に立て、開城の利を説かせた。


 長堯はこう禅僧に言った。

「我ら石田治部と縁者のこと故ならば、一命助かる見込みはござらぬであろう。だが、身命をなげうち働きたる士卒に死を望むのは不憫である。彼らの命が助かるのであれば、謹んで城を明け渡しましょう」

 禅僧はこの申し出を、勝成に伝えた。勝成は光教と協議して、長堯の言い分を受け入れ、大垣城はようやく開城した。


 長堯は城を出て剃髪し道蘊どううんと号し、伊勢朝熊山に蟄居した。23日のことである。勝成は城を接収して、家康にその旨を報告した。そして、長堯の助命赦免を請うたが、家康はこれを断じて許さず、切腹を命じた。


 長堯は、赦免に尽力した礼を勝成に述べ、

「かくあるべきこと」

 と言って、切腹に及んだ。28日のことである。


 ちなみに、国宝・日向正宗として三井記念美術館に所蔵されている太刀は、もともと秀吉が三成に下賜したものを、三成が長堯に与え、勝成が大垣攻の際、分捕ったものである。

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