第35話 西軍の反撃

 家康は14日ようやく美濃赤坂の岡山の頂上に本陣を置いた。厭離穢土欣求浄土おんりえどごんぐじょうどの陣旗、金扇の大馬印、小馬印の葵紋の幟七旒、総白幟二十旒が本陣に翻った。


 西軍の間者も当然これを確認し、すぐさま三成の下へともたらされた。

「左近をこれへ」

三成は、重臣であり猛将でもある島左近を呼んで何か策はないか問うた。


「殿、戦にはその場の勢いが肝心でござる。敵も当然手柄をたてるべく高揚した心で時を待っておるはず。某が寡兵を持って杭瀬川を渡り、敵を徴発いたしますゆえ、そこを伏兵がつけば、敵の先鋒は潰れます。緒戦の勝利は絶対の必要不可欠でござる。士気があがり、後の戦闘に有利かと存じます。なにとぞご裁許を」

「是非にも」

「はっ」

 島左近勝猛は兵五百を引きつれ出陣し、伏兵には宇喜多家の武将明石全登が兵八百を率いて待機することとなった。


 島左近勝猛は、猛将であり“鬼の左近”として敵に恐れられ、“三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城”と称される程の人物であった。生年・出自は不明だが、幼少に頃より孫呉の書を読み、筒井順慶に仕え、松倉右近とならんで、“右近左近”と呼ばれた股肱の臣であった。順慶の死後は、羽柴秀長に仕え、秀保の家臣として朝鮮の役に出陣して軍功をたてたが、秀保病没後は隠居して、近江に草庵を結んでいたが、三成が是非にという召し出しにて復帰してきたのである。三成の申し出は三成が秀吉から与えられた水口4万石のうち2万石を与えるからというもので、左近は三成を見込んで晴れて家臣となったというが、この話は後世の創作であったが、実際にも高禄で召し抱えたことは確かである。それほど、三成にとっては武勇にかけて頼もしい存在だった。文に長けていた三成は武に長けている側近が欲しかったのであり、左近を見込んでのことだったし、左近もそれによく答えた。


 秀吉没後に三成が大坂城天守にのぼり、四方を眺めた際に側近に三成が言った。

「天下擾乱の中に故秀吉公出て、群雄をしずめ、五畿七道を平定した。そして政都大坂は、今にいたるまで繁栄し、庶民の悦ぶ顔を見、歓声を聞く。ああ、民はみな、秀吉公の世のとこしえにあることを、祈り願っているのだ」

「御意にございます」

と側近が頷く中、一人左近は諌めの言葉を呈した。

「王公の都府に人集まり、繁栄がもたらされるのは、いにしえの習いであり、何も大坂に限ったことではありませぬ。また、それは豊臣家の徳によるものでもありませぬ。ただ、城市に来るの利があるからこそ、人々は集まって来る。集まれば繁昌する、というだけのことでござる。さらに繁昌と言ってもそれは、都心だけのこと。城下を二、三里も離れれば、そこには雨露もすのげぬ茅屋に住む、飢えた民があふれ、路傍に死す者が甚だ多いのが実情。さて、この有様を見れば、とても大坂は高枕に安臥していられる段ではござらぬ。ただ、城市の繁昌なるをおごり、士民の憂苦に耳もかさず、兵をつくろい、城塁を修築するというふうでは、豊臣は安閑としてはおれぬはずでござる。傾いた屋台を保持するには、武力にたよるは、自分の採らぬところでござる。まず、将士を愛し、庶民を徳をもって撫育するのが先決であろうと存じまするが」

「左近、もうよい。わかった」

 三成は、島左近に全幅の信頼を寄せたいたことは間違いない。


 三成は左近が部屋から出た後、奏者番を呼んだ。

「霧隠は何処におる?」

「おそらく近くにおります」

「すぐここに呼べ」

「はっ」

三成がお茶をすする間に、もう霧隠が現れた。

「お呼びでしょうか」

「家康が命まだ狙えるか?」

「隙を伺っておりますが、伊賀者の警戒厳しく近づけませぬ」

「左近が少し暴れると申しておる。隙ができるかも知れぬから、そこを狙え!」

「はっ」


 明石全登たけのりは備前保木ほぎ城主明石行雄ゆきかつの子として生まれる。生年は明らかではないが、父行雄は浦上宗景うらがみむなかげの家臣であったが、天正3年(1575)宇喜多家との戦乱により浦上氏が滅亡すると、宇喜多家に仕え、後を継いだ全登のときには、お家騒動により家老として宇喜多家を支える存在となる。


 島左近は兵五百を率いて杭瀬川に達した。杭瀬川は大垣と赤坂との間に流れる。家康の本陣岡山の東から、大垣の西へと流れる川である。杭瀬川の上流の西岸には、中村一栄かずひで、有馬豊氏が並んで宿営していた。朝靄の中対岸は薄いもやに包まれ見通しは悪い。斥候に河を渡らせるとともに、明石全登と連絡をとりつつその策を練った。左近は川岸に兵若干を残して、川を渡り敵陣に飛び込んでいった。静かであった。


「やれ」

 左近は兵を数隊に分けて進ませた。幾人かには、火を放つために松明をもたせていた。斥候が帰ってきて言上するには、中村一栄と有馬豊氏が陣を構えており、警戒も薄いということであった。陣営に迫った島軍は矢を放ち、火を一帯に放って奇襲した。しかし、それ以上の攻撃は止めた。意表をつき、敵の挑発をあおったのである。


「敵襲!」


 襲われた中村と有馬の陣営は狼狽したが、その後の襲撃はなく、逃げていくとの報告があった。

「逃してなるものぞ。追えっ!」

とばかりに、両隊が軍装を整えて、島隊を追っかけた。

「敵は寡兵。手柄を立てるのは今ぞっ!」


 島隊は杭瀬川を渡り、逃げる様をみせながら後退していった。そこには、明石隊が息を潜めて待ち構えていた。叢に伏せている鉄砲隊と弓隊が狙いをつけている。十分にひきつけてからでないと、鉄砲の威力はない。


「放てッ!」

ダダーン!ダダーン!鉄砲の銃声が響き渡り、騎馬武者が転げ落ち、徒歩兵が倒れる。そこに弓が雨霰と降り注ぐ。

「かかれっ!」

 足軽兵が突撃し、鉄砲を合図に島軍もとって返し、戦闘に入り乱戦となる。中村隊と有馬隊は統制は崩れ、もはや烏合の衆と化している。


「引けー」

 退却を命じたが、統制を失っている部隊は、もう必死で逃れることしかなかった。杭瀬川に逃れんと殺到し、深みにはまって流される者もいた。

「止めぃ!追うでない!」


 島左近はこれ以上の深追いは止めた。この僅かな勝利が士気を高揚することを思い、これ以上深追いすれば、こちらも徒に死傷者を出すだけで、今後の大きな合戦の痛手となることを考えてのことだった。


 家康は岡山の高台からこの戦闘の様子を遠望していた。初めは中村隊の一糸乱れぬ統制の効いた進撃に関心したものだったが、途中より形勢が逆転して行くことに憂いを覚えた。家康は本多に命じて、中村一栄あてに

「大事の前の小事である。速やかに引き取るべし」

と伝えさせたが、動き出した歯車は急には止まらなかった。家康は危険を感じたのであろう。このまま戦いが進めば、多分負け戦を起こし、それが全体の士気にかかわると思ったのである。


 引き上げた西軍は首実験を行い、宇喜多隊は騎馬雑兵合わせて130、島隊は騎馬雑兵合わせて116の首をあげていた。いっときの勝利であった。そして、東軍としてみれば、大戦の前の負け戦であった。


 この様子を霧隠は見ていた。家康の本陣といえども、慌ただしく兵が動き回っているのが見え、家康を始め側近が戦況の行方を眺めていた。隙が見えたのである。この機会を逃しては、もう二度とあるまいと思った。


 霧隠は、配下の忍び衆に目配りして、本陣の一角を狙わせた。その時に合わせて、霧隠は家康の一直線に向かうことを描いていた。

 忍び衆は、十数名で本陣に切り込んだ。

「くせ者でござる!内府殿を守らせぃー」

 年老いた重臣らは、家康を守るため、家康をとり囲んだ。母衣衆がこの忍び衆に向かう。しばしの乱戦となった。

「殿、こちらへ」

と陣幕の外へ逃れようと家康を誘導しはじめた。霧隠は気づかれぬように、というより、もう家康の家臣の一人を殺して、変装していた。そして、家康の元へ走り近寄ろうとしていた。そこへ、数名の武者が横から切りつけてきた。

「何をする。くせ者はあちらぞ」

と霧隠は言ったが、霧隠の前に立ちはだかり言った。

「これ以上前には行けぬ。覚悟いたせ!霧隠」

「うっ」

よく見れば、服部半蔵とその手下であった。

「また邪魔をいたすか」

「役目につき、ご免!」

 そういうと、半蔵の手下が攻めてきた。が、霧隠は軽くかわして、白煙を足元に投げていた。白い煙が立ち込め、一瞬真っ白になり周りを見えなくした。白煙が消えた時には、霧隠の姿はもうどこにも見えなかった。他の忍び衆は全員討ち果てていた。またもや家康を討ちもらした。

 

 島隊、明石隊による勝利は、西軍の士気をあげた。家康が江戸から赤坂に到着して、西軍内では、負け戦になるのではないかという噂が出てきており、それを払拭したとも言えるのだった。


 島左近が三成の元に戻ると、軍議が行われようとしているところであり、左近の帰着を待っていたのだった。

「左近、首尾の程はいかがであった」

「十分敵に一泡吹かせたものと存ずる。後はこちらの運次第」

「さて、それでは皆の策を聞こう」


 三成は徳川軍とどう戦をすすめるか皆の意見を聞いた。戦術家ではない三成は、やはり戦上手な武将の意見が必要であった。家康に比べ三成はやはり人心の掌握で不足なところがあり、それが戦運びにも影響する。戦はたたかうだけではないのだ。


 島津惟新がまず意見を述べた。

「わが物見の話では、敵兵の多くは長旅で疲労極まりなく、甲冑を枕に眠っていると聞き及ぶ。ただ今こそ、夜討ちをかけるべきと存ずる」

「夜討ちと?」

三成が怪訝そうな顔をして答えた。すると、左近が代わりに言った。

「さて頼もしき思し召しなれど、古今夜討ちは少勢が大軍に対して挙げる策でござる。大軍を持って仕掛けた例はござらぬ。美濃の地において我れ一戦あれば、味方の勝利疑いないし存ずる」

 島津がそれでも食い下がって言う。

「いや、大軍を持ってせずとも、我ら島津と小西殿、三成殿の蒲生十八人衆をご拝借願えれば、家康の旗本衆を蹴散らすのは容易いこと。諸大名は眼中にござらぬ。ただ、家康の本陣を狙えば、本懐を遂げ申す。これには夜襲しかござらず」


 蒲生十八人衆とは、慶長3年(1598)に会津120万石を知行していた蒲生秀行がお家騒動と理由に宇都宮18万石へと格下げされた時に、多くの浪人が発生したが、その際、三成が有望な士を召し抱えたものたちをさす。これらの蒲生衆は関ヶ原で活躍して討死するが、また生き残ったものも、他家に再仕官している。


 宇喜多秀家が言った。

「夜討ちの件、面白く存ずるが、家康はそう迂闊な陣構えはしないと存ずる。この際、大坂の毛利中納言殿と秀頼公のご出馬を願い、その上で東軍と相見えるのが肝要かと」

 行長が口を開いた。

「拙者もそのように考え申す。秀頼公がご出馬遊ばせば、東軍に心よせる豊臣恩顧の大名が何で秀頼公に刃を向けられましょうか」

「それが一番でござる」

「しかし」三成が困惑した表情で言った。

「先日も大坂に使者を遣わし、ご出馬を願うたのだが、淀の方様の反対意見で、断られておる」

「そこを治部殿のお力で何とか今一度」

 島津が自分の策が通らなかったが、勝つことへの執念だけは伝えた。

「しかし、今からでは、徳川との一戦をもう始めようとしている中、無理というもの。ここは、やはり、徳川との戦の駆け引きをどういたすか。それには、勝つしかござらぬ。勝つには、己を信じて戦うまででござる」


 軍議は妙案がでるでもなく、陽は大きく傾いていた。

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