第34話 家康ついに出陣
9月1日家康はついに江戸を出陣した。占いでは、一日は西ふさがりで凶日であり、出陣にふさわしくないと、家康は注進されたが、「西はすでにふさがっている。今日それを開けに行くのだ」と言い切って出陣したのである。それほど、この一戦にかけた決意が現れていた。
家康は三万余の兵を率い、2日藤沢、3日に小田原、4日三島、6日島田と着実に東海道を進み、一方西軍も三成も8日に大垣城に入った。家康が8日に遠州白須賀に達し頃、陣所に小早川秀秋の使者が訪れた。
「小早川中納言殿の使者がお目にかかりたいと参上いたしておりますが」
「中納言からの遣いだと、逢うてみるか」
家康はこの合戦への秀秋の心が読み取れていた。三成の傘下で戦うのは翻意ではあるまい。いづれその真意を告げるときが来るに違いない。西軍主力の小早川が東西の合戦に参加するかしないは、大きな意義を持つ。参戦しなければ、いや裏切りをおこせば、必ず勝つことができるのだった。
「内府殿におかれましては、息災のことお慶び申し上げます。此度の戦は三成めの考えにて起りましたこと。秀頼公を御大将に奉られ、われらも重々難儀の段にて、内府殿に御加勢したきことなれど、心乱るる仕儀にてございます」
「うん、うん。中納言殿の真意、ようわかっておる。急ぎ立ち返り、中納言殿にお伝えあれ。筑前では難儀であろう。西国備前あたりが中納言殿にはふさわしいかと思うておる」
「はは、ありがたきお言葉。早速、今のことしかとお伝えいたします」
「遠路大儀であった。よしなに伝えられよ」
家康は、9日岡崎の地に入り、10日熱田に入り必勝を祈願した。江戸で諸将への指示を出した日々を過ごし、休む間もなく、尾張の地についたのである。岐阜城は攻略したあとだったので、安心した気持ちで国入りした。
家康は11日に清洲に入ったが、強行軍のためか少し風邪気味にて、出立を一日のばした。それと、気になるのは中山道を行軍する秀忠軍の動向であった。もうそろそろ木曾を通過していてもいいはずで、先触れが連絡をしてきてもいい頃だったが、何もその音沙汰がなかった。
(何を無駄足を踏んでおるのじゃ)
家康は、優位に戦を進めるには、絶対必要な秀忠軍の存在であった。それが、到着が遅れるようでは、その作戦を改めなければならなかった。万一、小早川が裏切らなければ、負けることも覚悟しなければならないかもしれないのだ。
家康は13日には攻略のなった岐阜に到着し、本陣を構えた。これにより、福島正則以下の諸将も時至れりと、長い待ちぼうけの状態から解放された。
岐阜城を攻略した東軍は、赤坂へと兵を進めていた。三成は、岐阜城が危ないと聞くと伊勢路にある宇喜多秀家らに至急大垣に来るよう要請し、また瀬田の守備隊にも大垣に来るよう伝えた。また垂井に陣を置いていた島津義弘に対して、墨俣へ移動するよう伝えた。三成は、小西行長と共に大垣城を出て、沢渡村に陣をおいた。その時に岐阜城から、米野に布陣した織田の諸隊は、崩されて岐阜城に戻ったことを聞いた。そして、岐阜城も長く持たないという知らせを受けた。
「なんと、岐阜城が落ちると?」
三成はあっけなく戦略が崩れていくことを感じた。すぐさま手を打たねば、大垣城も危ないと思い、舞兵庫らに命令を下した。
舞兵庫は、もともと豊臣秀次が河内若江城にあった時に若江八人衆と呼ばれた一騎当千の家臣で、そのうち舞兵庫を含めた六人が三成の家臣となっていた。
兵庫は、同じ若江衆の森九兵衛や杉江勘兵衛らと共に兵一千を率いて、合渡川の渡し場付近に陣をとって、東軍が渡るのを阻止しようとした。ここを渡られれば、大垣まで五里八町ほどしかないのだ。
23日、岐阜城は陥落し、東軍は西軍が岐阜城の来援に来るかもしれぬということで、黒田長政、田中吉政、藤堂高虎は、合渡川に川ぞいに進み、対岸を見渡すと、西軍の軍勢がたむろしているのが見えたので、鉄砲隊に発砲を命じた。まだ夜明け前にて、川霧により視界が遮られており、西軍の九兵衛らは敵が対岸に迫っていることに気づくのが遅れ、慌てて応戦した。が、田中隊は浅瀬を探して渡河を始めた。長政も浅瀬があるのを聞き、吉政に続いて浅瀬を渡り始めた。
黒田隊は隊列を整え、舞兵庫の隊に突撃した。兵庫は防戦を整えて、これに応じたが、すぐに乱戦の状態となった。少し遅れて、田中隊も西軍に突入していった。兵庫はさすがに勇将で近く敵を倒していたが、形勢は西軍に利はなかった。
「兵庫殿、もはや耐えきれぬ。一旦兵を
勘兵衛が言った。
兵庫が周りを見渡して言った。
「おう、わが殿がまだ来ぬ以上これ以上は戦えぬ。一旦退こう」
「某が殿軍を引き受け申す。はよう隊をまとめ退かれよ」
「頼んだぞ!勘兵衛。城で待っておる」
これが勘兵衛を見た最後となった。勘兵衛は九尺に及ぶ朱柄の槍をふるい、殿軍として立ちはだかり、一兵も通さずとして奮戦していたが、田中吉政の家臣で西村五右衛門なる者が、我が槍と勝負として戦うことになったが、さすがに勘兵衛も激戦で疲労困憊しており、劣勢となったことを受けて、槍を投げて五右衛門に傷を負わせたが、深手にならず五右衛門は踊りかかって組み倒し、勘兵衛の首をとったのである。
舞兵庫らは三百余を失い、大垣城に退却していった。東軍の藤堂隊はこの戦に参加せず、下流を渡り終えてそのまま赤坂へと隊を進めた。
三成は沢渡にて島津、小西を迎えて、軍議を行なっていたが、そこに届いたのは、合渡で合戦の結果舞兵庫ら敗れて退いたことが耳に入った。またもや一大事である。
三成はすぐさま「大垣城に戻る」と騒いだ。軍議に来ていた島津義弘は慌てた。部隊は墨俣にそのままである。
「治部殿、
三成は意に介せず、馬を呼び寄せ退却しようとしていた。
島津の家臣は三成が乗る馬を抑えながら、こう言った。
「わが主従を死地に陥れながら、貴殿お一人で退くとは卑怯この上なし!」
「黙れ!」
三成は振り払って馬を走らせた。義弘は墨俣にいる豊久に連絡をとり、兵を撤収させ、途中東軍の兵を待ったが、会することがなかったので、大垣城に向かった。
三成はさっさと退却したことに後悔したのか、一人島津隊を迎え、労をねぎらったが、島津にとって癪に触ることであり、のちに本戦で島津の戦い方に現れるのであろう。
藤堂高虎は赤坂に達すると、江戸に戦況の報告をした。その返信が高虎の元に届いた。
早々注進、執着の至りに候、この度治部少輔罷り出で候処に、一戦に及ばれ、悉く討ち果たされし事、潔きよき儀御手柄に候、来たる朔日出馬相定め候、その元
八月廿八日
家 康
藤堂佐渡守殿
家康は戦勝の報告を聞いて、気持ちよく江戸を出発したに違いなかった。幸先良しと思ったことであろう。
14日、家康は岐阜より、赤坂へ向かい、先に陣を置いていた東軍の諸将に迎え入れられた。25日、井伊と本多は選定していた赤坂の岡山に家康を招き入れ、総本陣とした。
一方、三成は西軍が赤坂に陣を置いたまましばらく動かず、敵の目標は大垣城ではなく、佐和山城ではないかと、疑心暗鬼の陥り、一時佐和山城に戻るという失態をおかしたが、8日に大垣城に戻ってきた。連絡を受けた大谷吉継は、3日には敦賀から関ケ原山中村に布陣していた。3日には、伊勢長島から宇喜多秀家が大垣城に到着し、7日には伊勢攻略にあった毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親らが関が原南宮山に布陣を整えた。一番遅く着いたのは、小早川秀秋で、9月14日にやっと関ケ原を見下ろす松尾山に陣を構えた。
決戦の部隊は、三成が当初予定していた尾州ではなく、古来よりの養老関となっていた。
三成は、一ヶ月半に及ぶ戦が続き、西軍の士気を高めるにはどうしたらよいか思案した結果、大坂城にいる秀頼公のご出馬がかなえば、きっと大いに士気があがるに違いないと考え、さらに東軍に付く豊臣恩顧の心も動揺するに違いないと思った。
「毛利輝元殿にこの書状を届けよ。秀頼公のご出馬を必ず成し遂げよ」
「はっ、必ず」
急使は大坂城西の丸にいる毛利輝元に三成からの至急ご出馬の書状を届けた。
「殿、三成殿の通り、秀頼公を奉じてご出馬いたしまするか」
「うん、そのような儀なれば、豊臣のためならば、出馬すべきかと思うが」
だが、淀君は秀頼の出馬を許さなかった。三成の戦は、豊臣の為ではなく、我が子秀頼を名目に使っての戦であり、いわば私怨のようなものであり、もし出馬すれば、どんな処遇を受けるかわかっていた。淀君でさえ、実質家康が政権者であることは明白に理解していた。家康が秀頼の後見人となったが、実際は政権の座を奪いとる形となり、さらに味方となるはずの、豊臣恩顧の諸大名までも掌中に入れてしまっては、なす術はなくなってきていた。三成が挙兵して、豊臣恩顧の大名に真意を問うても、反三成の心が先立ちて、豊臣に対する忠義はもはやどうでもいいものだった。
輝元は、家康派にも注意を払わなければならないことに、違和感を覚えた。この戦いは誰のために、なんのための戦いなのか、いつとは違う戦に気分はすぐれなかった。
「もし、出立とならば、増田長盛殿がすぐに家康に密告するでありましょう」
「長盛が、か」
「はい、徳川の間者と思われる輩が屋敷に出入りしておる様子」
「うん、ならばどうすればよいのじゃ」
「このまま静観いたすしかないかと思われます。殿。三成が万一徳川を破れば、その時ご出馬されても遅くはないかと」
「うん」
そんな長盛に対し、三成は9月12日付にて書簡を大阪に送ったが、使者は途中大津で東軍に捕らわれ、長盛の手には届かなかった。(後世の偽書の可能性もある)
三成の合戦前の心情がわかる書簡である。
一、敵今日に至る、赤坂何の
(赤坂の敵は今日に至るも、なんの行動も起こさず、ただじっと滞陣しているだけで、何かを待つように見受けられ、皆不審だと言っている)
一、江州勢州より罷り出で候衆、参著候はんとて
当城
今日の談合にて、
(近江より出陣した衆は、金山まで来ているが、自分は大垣まで来ているのに、のんびりしているようだ。大垣城には、伊藤盛正の家来を始め城下の町人のものまで人質にとっているが、敵より火つけの才覚があり、伊藤は若輩ゆえに、家中の者は様々な才覚をするので、心をゆるせない。今日の軍議にて味方の軍略も決まるであろう。一昨日長束正家と安国寺恵瓊の陣所を訪れ、彼らの存念を聞いたが、その限りでは、事が上手く運ぶとは思えない。なぜなら彼らは敵に対して大事をとりすぎ、敵が敗走しても、それを壊滅する手段も持たず、とかく身の安全ばかりを考え、陣所を垂井の上の高所(南宮山)に設けたが、そこは人馬の水もない高い山で、万一の時は人数の上下もできないほどの山であり、味方も不審に思っているので、敵もそう思っているであろう)
一、
(当地で苅田を行えば、兵糧はいくらでもあるのに、敵を恐れて苅田にさえ人を出せず、兵糧は近江より運んでいるようだが、最近は味方中が萎縮しているようだ)
一、味方勢州江州の人数出し候はゞ、何とぞ
(伊勢、近江からの軍勢が集まって来ているが、何か策を立てているかと思うが、のんびりとしている。そのせいか東軍ものんびりしている。某が思っていることを長束と恵瓊に伝えたが、いやいや仕度をしているようだ)
一、
是も
(とにかくこのようにのんびりしているようでは、味方の心中もわからない。御分別をいたす時である。敵味方の下々での話では、増田と家康との間に話し合いをついており、人質の妻子は一人も成敗することないと言っている。これも分かったものが言っているのではなく、下々の申していることだ。犬山に加勢した衆が裏切ったのも、妻子が大丈夫だからとそうしたのだと、下々が言っている。敵方の妻子を3人、5人成敗すれば、心も変わるだろうと当地の諸将は言っている)
一、大津の儀、
(大津の京極のことは、この際厳重に処分しなければ、以後の仕置にさしさわりがあると思う。高次の弟が当地で種々と才覚をしていることは、推量のほかである)
一、敵方へ人を付け置き聞き申し候、佐和山口より出でられ候衆の中、大人数もち、敵へ申し談ぜらるる仔細候とて、此中相尋ね候、其故に勢州へ出陣せられし者も申し留め、
(敵方へ様子を探りに言った者が帰ってきて言うには、佐和山口から出動した衆で大軍をようして敵と内通し、伊勢への出陣をも抑え、各自それぞれの在所で待機するよう命じたという噂が、この二、三日しきりに伝えられ、敵方は勇気づけられていたが、近江の衆がことごとく山中へ出動したので、噂の相違したと言っているという。とにかく人質を成敗しなければ、取られた人質について心配しないのは当然で、これでは人質も不要のように
思うばかりだ)
一、何れの城の
(連絡のための城には、輝元の軍兵を入れておくのが肝要である。これには子細があるので、御分別をされて、伊勢をはじめ大田駒野に城を構えることが良いと思う。近江と美濃の境にある松尾城や各番所にも中国衆を入れておくように御分別されるのが当然のことです。いかほど確かな遠国衆でも、今時は所領に対する欲が強いので、人の心は計り難いのです。分別するときです)
一、当表の儀は、何とぞ諸侍心揃い候はゞ、敵陣は廿日の中に破り候はん儀は、
(当地ではなんとか諸将がここをを合わせれば、敵陣を20日以内に破ることは容易いことであるが、この分では結局は味方の中で不慮の事が起こるのは、目に見えるようです。よくよく分別してほしい。島津義弘も小西行長も同じ意見だが遠慮しているようだ。自分は思ったことは残らず言っている)
一、長大、安国寺、存じの外遠慮深く候、
(長束、恵瓊は思いのほか引っ込み思案のところがあり、そちらに当地の様子を一目なりとお目にかけたい。敵のうつけたる様子といい、味方の揃わないところといい、ご想像のほかであるが、それ以上に味方は体たらくの状態である)
一、輝元御出馬これなき事、拙子体は尤と存じ候、家康上られざるには入らざるかと存じ候へ共、下々は此儀も不審たて申す事に候事
(輝元の出馬しないことは、もっともなことと思う。家康が西上しない限りは必要ないが、これについても下々では、不審をたてていろいろ言っている)
一、
(幾度も申しているように、金銀米銭を使うのは、この時である。自分は手元に持っているものは出してしまった。人も召しかかえ、手元の逼迫は大変だと思っていただきたい。今が大切なときなので、そちらもその心得でいてください)
一、江州より出でられ候衆の手前、自然の不慮の儀も候へばと存じ、是のみ迷惑に候、輝元御出馬これなく候はゞ、佐和山下へ中国衆五千計、入れ置かるべく候儀、肝要の御仕置に候、
(近江から出陣した衆に、万一不慮のことがおきれば、はなはだ厄介なことです。輝元の出馬がなければ、佐和山城へ中国衆を五千人ほど入れておくようにされることが肝要です。また伊勢に出られた衆は、万一の時は大垣、佐和山の路を通らず、太田駒野の畑道を通って近江に退去しようという意図のように見られるので、長引くことと思われます)
一、備前中納言殿、今度の覚悟、さりとては御手柄、是非なき次第に候、此段諸口より相聞こゆべく候間、申すに及ばず候、一命を捨てて御かせぎの体に候、其の分御分別御心得これあるべく羽兵入、小摂同前の事
(宇喜多秀家の今度の覚悟は立派なもので、このことは他からも聞こえてくるであろうから、申し上げることもないが、一命を捨てて働く覚悟である。その分別このようにありたい。島津、小西も同じである)
一、当分御成敗これあるまじき人質、妻子、宮島へ御下しこれあるべきか、御分別過ぐべかざる候事
(当分成敗しない人質の妻子は、宮島へ移されるのがよいのではないか。ご分別が過ぎてもよくない)
一、今度勢州口より働かるる衆、中国は是非に及ばず、其外長大、大刑並御弓鉄砲衆も、長大、安国寺一手に引き向けらるる様に相見え候間、大人数回り兼ね候、人数も少く、そつに罷成さる体に候事
(伊勢口より出陣したる中国衆はむろん、吉継及び秀頼の御弓鉄砲衆までも長束と恵瓊は南宮山に引き寄せようとしているが、人数は少々無駄になるようです)
一、丹後の儀、
(丹後方面の人数が入らなくなったのであるから、その人数を少しでも当地へ差し向けてほしい)
九月十二日
石田治部少輔
増田右衛門尉殿
三成には、宇喜多秀家、島津義弘、小西行長、大谷吉継しか頼りになる者がいなかったとよく分かっていた。それ以外の者は、烏合の衆のなにものでもないことを言っているのだ。三成にとって、もはや家康のと戦いは大誤算だったと思わざるを得なかったであろう。義にかけて決起はしたが、ほとんどは避戦気分なのだ。しかし、賽は投げてしまったのだ。あとは真の義によって結ばれる者のみが、天佑を信じて戦うのみだ。
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