第22話 伏見城落城

 伏見城を守る鳥居元忠は内藤家長や松平家忠らと軍議を開き、再度籠城すべしという方針に決し、西軍に降伏しない旨の返書を送りつけた。最早戦は避けられない状況となった。 城兵にとっては、少しの増員も見た。それは、大坂西の丸から追い出された佐野綱正が500ばかりの兵を率いて、伏見城に逃れてきたので、入城を許した。


 初めは、入城を拒否したが、是非とも存分に働き汚名を注ぎたいとの願いを聞き入れて入城を許したのだった。


 翌19日、西軍は伏見城に降伏の意思がないとみて、宇喜多秀家は攻撃を下知した。西軍の兵力は、宇喜多隊、小早川隊、島津隊、毛利隊を主力とする約4万の大軍であり、一対二一の兵力差であった。

 伏見を囲んだ武将は以下の通りである。


毛利元康、吉川広家、鍋島勝茂、長宗我部盛親、小西行長、毛利秀包、太田一吉、毛利勝信、毛利勝永、安国寺恵瓊、南条忠成、秋月種長、福原長堯、木下重賢、木下延俊、垣見一直、杉若越後守、杉若藤二郎、高橋長行、相良頼房、熊谷直盛、五島純玄、石川頼明、糟谷宗孝、池田孝祐、平塚為広、宗義智、杉浦久信、上田重安、木村勝正、木村豊統、川尻直次、木村重高、織田信高、織田信正、織田信貞、猪子内匠、桑原甚右衛門、滝川豊前守、羽根田長門守、熊谷半次郎、山田主計、雑賀重朝、溝口外記、岡田直教、三吹大和守、矢部豊後守、伊藤加賀守、駒井中務大輔、等々多彩な顔ぶれが揃っていた。


 当時、城攻めには城側の三倍以上の兵力がいるとされていたから、圧倒的な差であり、早々の落城が予想されていたし、西軍の誰もが簡単な城攻めと考えていた。ところが、現実は違っていた。


「降伏勧告文を届けよ!」

「はっ」

 

宇喜多秀家は鳥居元忠が降伏する意思がないと知りつつも、大軍をみれば無駄死にを考え直すかもしれないという思いもあった。しかし、やはり返事はなかった。


「三河武士の強さ思いしるがよかろう」


 伏見城内にはかなりの鉄砲が用意されていた。また、伏見城の屋根瓦は金銀製で鋳造されており、いざという時は溶かして、鉄砲弾にも利用できたのである。それだけ、秀吉の築城した伏見城は堅固であった。

 宇喜多軍、小早川軍、毛利軍の大軍が城攻めを始めた。城攻めに効力の発揮する大筒もまだ実用段階ではなく、従来の攻め方であり、守備側の鉄砲を巧妙に使えば、ある程度籠城することは十分可能だった。しかし、籠城は本来後詰めがあってからこそ、意味がある戦法ではあったが、こんどの場合は、後詰めなく、単なる捨石にすぎなかった。ただ、悲壮なだけに、東国にある徳川の譜代を奮い立たせることにはなった。大坂方は4万の大軍とはいえ、一部には家康派もいたので、適当な働きで済ますことを考えていた武将もいたのは確かだった。


 城兵の配置は次の様に決められていた。


  本丸    鳥居元忠

  西丸    内藤家長、同元長、佐野綱正

  三の丸   松平家忠、同近正

  治部少輔丸  駒井直方

  名護屋丸  甲賀作左衛門、岩間光春 

  松丸    深尾清十郎

  大皷丸   上林竹庵


「かかれ!」

「ワー」

 寄せて一万余の軍勢が攻めかかる。伏見城は北から西にかけては、平坦だが二重の堀にかこまれ、突入は阻害されるため、南の丘陵になっている方から攻めるしかないが、幾つかの出丸に分けられ、それを潰していかなければ、本丸へはいけない堅固な造りであり、秀吉が気に入っていた城の一つでもある。山里丸、増田丸の二つの郭に、総攻撃をかけるが、鉄砲のつるべ撃ちや矢の反撃にあい、寄せ手は死傷者続出で、一旦は退却しなければならなかった。寄せ手からの銃撃は壁に阻害され、ほとんど意味がない。


 5日がたち、やっと山里丸の一角を切り崩したと思っても、城内からの反撃を阻止できず撤退し、長期戦の様相を呈してきた。その様子を聞き三成は、甲賀組に城内での内応を促す作戦をたて、内部から切り崩す作戦に変更するよう促した。甲賀組は城内の甲賀出身を二日程かけて探し出した。


「城内に源太という旧知の甲賀者がおります。今は大藪左源太と名乗り、鉄砲組頭を務めております」

「そやつは信用できるか」

「はっ、幼馴染でござれば、間違いないかと存じます」

「ならば、こう申せ。内応すれば恩賞は思いのまま、従わぬときは一族ことごとく探し出し磔に処するであろうと」

「はっ、御意のままに」


 そして、約束が果たされるかどうかわからぬまま、7月が最後の日、城内より文が届けられた。


“夜明けとともに、城内に火を放つ”

「オォー、いよいよでござる」

「夜明けとともに総攻めじゃ、触れを出せ」「はっ!」

 西軍は夜が明け始めると、攻撃を始めた。その時である。西の丸の焔硝蔵に火が点じられ、爆発を起こし火災が発生し、櫓が炎上を始めた。


「一気に崩せ!」

 伏見城の将兵もこれまでの戦いで多くが死傷し、戦力は半減していた。

「敵を決して本丸に入れてはいかぬ!蹴散らせ」

 内藤家長は怒号して、兜をとった。

「元忠殿、ちと汗を流してまいる」

「弥次右衛門、頼む」


 家長は家臣を引きつれ、西の丸へと向かった。家長の父清長は家康の祖父清康の一字を授かったように、自らも家康の一字を授かり元服した徳川譜代の武将だった。家長は矢の名手であり剛弓の射手で名を成しており、二俣城攻めの時には、敵将をして源為朝か平教経かと言わしめた。


 頼みの鉄砲隊も城内深く入ってきては、効力が薄く、多勢に無勢、押され下がっていく。治部少輔丸を守備していた松平家忠も、島津隊と激闘を交わしたが、味方次々と倒れ、自身も傷を受け、これまでと自刃してはてた。


「者共!残すは、西の丸と本丸のみぞ!蹴散らせ」

シユー・・ブス

「うっ」

 家長が放った矢によって一人の武将が倒れ伏せた。やつき早に飛んでくる矢に何人かが倒れた。

「鉄砲隊!放てぇ」

 駆けつけた鉄砲隊により、家長の弓隊は蹴散らされた。家長は子である16歳になる元長とともに、奮戦して敵を防いでいたが、衆寡の敵兵には如何ともし難く、従士原田に対して、脱出して内府に落城を報告せよと言い残して、自刃して果てた。元長は父とともに死のうとしたが、火の回りが激しくて近寄ることができず、その場にて腹を切りて、火中に飛び込んだ。


 同じく西の丸にいた佐野綱正は、潔く戦い討ち死にするまでと放言していたが、西の丸を去り、さすがに観念したのか、鉄砲を持って防いでいたが、暴発により戦死を遂げた。


 西の丸も西軍の手に落ちた。残すは本丸だけとなった。本丸に残るは、二百名余りのみとなっていた。


 秀秋隊は火箭を用いて天守閣に火を放ち、突入していった。

「元忠殿、これより如何に」

「わが輩下の者供よ。ここまでようやった。内府様もさぞご満悦であろう」

もう周りには十数人しか残っていなかった。寄せ手は次々と攻め寄せてくる。その中で鈴木孫市が元忠に槍をついてきた。元忠はそれを払った。

 その容姿から孫市はハッと気がついた。

「鳥居彦右衛門尉殿とお見受けいたす」

「某こそ鳥居彦右衛門尉元忠である」

と元忠は力強う口上した。


「いや、元忠殿でござったか。御働きお見事でござる」


 孫市は跪き、さらに続けて告げた。

「火は天守閣を包み申し候、ここに至ればご自害あそばされ、某御首いただきて後に至るまで名誉となさん」

「冥土のみやげにこれだけの戦をしたのじゃ。悔いはないが、ここで敵の刃にかかるのは無念じゃ。そなたの手柄話として後々まで語るがよい。わが最期をとくとご覧あれ」


 鎧を脱いで、座して見事に腹を切った。孫市はおしいただく様にして元忠の首をとった。ついに、伏見城は落ちたのであった。


 西軍は、伏見城を落とすのに三千余の死傷者を出したという。徳川の奮戦であった。この、奮戦こそが、西軍の出だしを挫く戦いであった。


 鳥居元忠、松平家忠、同政近の首は、大坂に送られ、実験に及んだのち、京橋口に晒されたが、敵ながらその誠忠を賞すべきとして、公卿台に載せられていた。


 とにもかくも西軍は勝鬨をあげた。勝利をかざることは大事であったが、数日で落城するであろうと思っていたのに、十日もの日数がかかったことが番狂わせであった。その分、家康は余裕を持ったことになる。

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