第21話 伏見城攻め

 家康への弾劾状の効果があったのか、大阪方にくみする武将が集まってきた。主なる武将は、毛利中納言(安芸広島)、宇喜多中納言(備前岡山)をはじめ、毛利宰相秀元(長門山口)、吉川蔵人広家(出雲広家)、島津兵庫頭義弘(薩摩鹿児島)、小早川中納言秀秋(筑前名島)、鍋島信濃守勝茂(肥前佐賀)、長宗我部宮内少輔盛親(土佐浦戸)、増田右衛門尉長盛(大和郡山)、小西摂津守行長(肥後宇土)、蜂須賀阿波守家政(阿波徳島)、生駒雅楽頭うたのかみ親正(讃岐親正)、毛利侍従秀包ひでかね(筑前久留米)、安国寺恵瓊、伊東民部大輔祐兵すけたけ(日向飫肥おび)、長束大蔵少輔正家(近江水口)、高橋右京大夫元種(日向延岡)、脇坂中務なかつかさ少輔安治(淡路洲本)、秋月長門守種長(日向高鍋)、島津中務少輔豊久(日向高城)、多賀出雲守秀家(大和宇多)、福原右馬助長堯ながやす(豊後臼杵)、木下備中守重賢しげかた(因幡若桜)、毛利民部大輔高政(豊後隈府)、高橋主膳正直次なおつぐ(立花宗茂の実弟)、相良宮内少輔頼房(肥後人吉)、谷出羽守衛友もりとも(丹波山家)、横浜民部少輔茂勝(大和播磨)、藤掛三河守永勝(丹波)、奥山雅楽頭正之(越前)、赤松上総介則房(阿波住吉)、山崎左京亮定勝(伊勢竹原)、堅田兵部少輔広澄(近江堅田)、高田河内守、川尻肥後守直次(美濃苗木)、服部土佐守正栄まさひで(越前) 等で総勢9万3千7百余が集まった。この中には当然、日和見的な者もいたし、家康の東下に参加しようとして、途中で石田方に勧誘されて、意に反して石田方になった武将もいた。


 集まった面々を見れば、豊臣政権の元で、大老のうち、前田利家は亡くなっているので、四大老のうち、二大老が石田陣営、さらに上杉が会津にあり、家康に対抗している。奉行衆のうち、石田、長束、増田が石田方で、この豊臣体制の構図から見れば、家康が反抗的態度で背いたものに見える。しかし、権力からすると、家康が実効支配をした結果として成立したもので、この二つの陣営の戦いは、今から見れば不思議な感じもする。ただ、当時としては、家康陣営はあくまで、石田、大谷の二人の共謀叛旗であると認識していたことを忘れてはならないのである。


 大坂城内で参集した諸大名が集められ、軍議が行なわれた。


「方々には内府ご違約について制裁を加えるべく、与力賜り恐悦至極の至りでござる。太閤殿下の御置目にそむき、秀頼公をないがしろにしての所業目に余るのもがあり、このままでは、天下の一大事と確信し決起いたした。江戸にて上杉征伐に目座す徳川と追随いたす諸大名と雌雄を決せんと思惟いたす」


 三成が諸大名の前で決意を述べて、諸大名の覚悟の程を知らしめた。


「さて、今後の作戦をどう打つか。皆の存念をお聞かせ願いたい」


 大谷吉継が場をまとめる役目である。正面には、総大将の毛利輝元、副大将の宇喜多秀家が座っている。


「さては、十万に及ぶ大軍を率い、東上して内府と決戦に及ぶべきである。会津には天下無敵の上杉軍が控えておる。挟み撃ちをすれば、わが勝利間違いなし」

「しかし、この大坂を空にいたさば、伏見におる鳥居らが、西国におる同志を集め、大坂を攻め落とすやも知れぬ」

「大坂城は太閤殿下が造られた堅固な城でござる。わが軍勢だけで、二月や三月は防いでみせましょう」


 そう発言したのは、立花宗茂である。


 立花宗茂は、秀吉が「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」と激賞した武将である。宗茂の父は、高橋紹運であり、紹運は大友宗麟の家臣だった。宗茂十三歳のとき、大友家家臣の立花道雪からの願いにより、娘との養子縁組となった。道雪は生涯三七度の合戦に一度も敗れたことがない武将であり、勇猛果敢であった彼は、また将兵からも信頼されていた。道雪は下半身付随という障害がありながら、駕籠に乗り、戦場での指揮をとって戦い抜いた武将であった。二人の優れた武将に育てれれた宗茂は、当然その器を磨き、名将としての礎を築いていく。大友家が没落していく中、宗茂は勃興する島津氏と果敢に戦い、秀吉が九州に到着するまで、守り通した。朝鮮の役でも、小西軍が明軍に崩された時、反撃の先鋒となり、明軍を打ち破った。この名だたる武将を家康も陣営に引きこもうと画策したが、秀吉への恩義から、大坂方についたのである。


 三成が言った。


「いや、大坂城には、安芸中納言殿、増田右衛門尉殿が在番して、秀頼公を補佐していただきたい。備前中納言殿をはじめ、諸将の皆々方におかれては、美濃・尾張に出でて、内府の軍勢と一戦に及びわが勝利に導きたし」


 小西行長が言った。


「だが、伏見と大津があり、これが一番の厄介者となろう」


 恵瓊が言った。


「だが、こちらは大軍、守る城兵は少なく、後詰もござらぬ。まずは降伏開城を勧めれば、戦せずとも、手に入るやも知れぬ」

「しかし、伏見は鳥居元忠が守っておる。降伏するとは思えぬ」


 島津義弘が、家康から信頼されて任された鳥居が討死に覚悟で城を守る気でいると感じていたから、強い口調で言った。

 

「東上するといっても、やはり伏見城は目の上の瘤じゃ。どうしても攻め落とさねばなるまい。伏見城は内府が最も信頼しておる鳥居元忠が守っておる。たかが、二千の兵といえどもあなどれぬ。しかし、伏見を落とせばわが気勢は一気に上がるであろう」


 宇喜多秀家が伏見を落とすが一番のことと表明する。


「いやいやわが5万の大軍をもって攻めれば、一日と持ちこたえられまい」


小西行長が多勢に無勢、簡単に落城させると語気荒く言った。


「伏見の城は、秀吉公が精魂こめて築城された天下の名城でござる。荘厳だけでなく、縄張りも堅固で、大軍が攻めようとも、そう容易く落ちぬと考えねばならぬと存ずる」


 小早川秀秋が、秀吉が手がけた城は、そう簡単には落城せぬと反論する。


「左様、ここは策を労した上で攻めたがよいと思う。一両日の内に、城を落とせば気勢もあがりましょうが、もし万一長期戦となれば、徳川の諸将がかえって気勢をあげましょう」

 

大谷吉継が単純な城攻めでは、日数がかかると言った。


「策とは?」

「内応でござる。伏見には、甲賀衆が入ってござる。こちらにも甲賀衆はおります。なびく確立は高こうござる」

「刑部殿がかく言うのであれば、策はまかせよう。いずれ、内府は西に向かうであろう。が、東には上杉があり、全軍を持っては決してこれぬ。最後の決戦となり、秀頼公がご出馬あらせられれば、豊臣恩顧の大名も、寝返ることも考えられる。さすれば、わが勝利間違いなし。各々の恩賞も思いのままでござろう」


 大坂城内での軍議は数刻にも及んだ。その結果次のような主旨となった。

 一、毛利輝元、増田長盛は、大坂にて秀頼公を補佐する

 一、宇喜多秀家、石田三成、長束正家は、美濃・尾張方面に進出して家康の

   動向をうかがい、以後の行動を決する

 一、大谷吉継は北陸方面の攻略にあたる

 一、家康が西上してくれば、輝元は大坂から美濃・尾張方面に進出、秀家とと

   もに全軍を指揮して勝敗を決する

 

 翌18日、毛利輝元の名で、伏見城の鳥居元忠にあてて、伏見城明け渡しの文が届けられた。降伏勧告文である。増田長盛が使者を立てて、元忠の元へ勧告に赴いた。


「近く備前中納言大軍を率いて大阪を発し、伏見を攻め落としたのち、美濃から尾張に出る計画である。故に城中の籠城は兵少なく敵わぬことであろう。一日も早く城を出て、関東へ下られよ。内府の懇情を思い、ご忠告いたす所存である」


 元忠は、全く動ぜず使者に告げた。


「仰せの趣、受け難し。たとえ我らが臆病風に吹かれ東国へ逃げ様とも、それを差し止めてこそ、武士の計らいというもの。城をすてて出でよと言うは、全く笑止千万のご忠告。ご推察のごとく、城兵少なく、不肖の我らであるが、殿の下知を受け申して城を守る以上、誰であろうと粗忽に人数を差し向けられるのであれば、矢をもって射ちかけるであろう。重ねてご使者を向けられるのであらば、其の者の首を刎ねるまででござる」

「元忠殿の御存念、とくと聞き申した」


 使者は虚しく帰って行った。

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