第20話 細川ガラシャの悲劇

 7月17日、増田長盛らは、使者を大津に派遣し、京極高次に対して夫人のはつ殿を人質を差し出すよう求めた。高次の妻は、淀殿及び徳川秀忠夫人と姉妹だ。その姉芳寿院は、高次の妹であり、松丸殿として秀吉の寵妾の一人であった。故に、家康にも懇意であり、この人質の要求に応えることはなかったが、朽木元綱が説得につとめ、ついに長子熊若を大阪に差し出した。


 藤堂高虎の弟高清を質にとろうと大洲へ兵を遣わしたが、城兵に阻まれ果たせず、伊達正宗の長子秀宗をとらえて、宇喜多秀家邸に置き、水谷勝俊の長子勝隆を質にしようとしたが、乳母らが守り京都東山に逃れて隠れた。


 悲劇を迎えたのは、細川忠興夫人のたま殿通称ガラシャ夫人であった。数日に世上の様子から、大坂方より人質の申し入れがあることは察しが付いていた。

 忠興は家康に従い東下する際、万一のことを考え、留守居の小笠原少斎と河北石見に対して、夫人を殺して、自らも自害して果てるよう命じている。


「細川忠興は東軍でも重要な人物だ。かの武将の人質をとり押さえておくことは必定なこと。人質とならば、忠興は愛妻家故、こちらの言い分を聞かぬわけにはいかぬ。必ずや連れて参れ」


 三成は使者に厳命した。だが、意外な方向に展開してしまった。


 最初の使者が遣わされた時は、人質となることを拒否したため、再度大坂方は兵を率いて、細川邸を包囲して、強硬に人質となることを求めたため、ガラシャ夫人は自害したような後伝となってしまったりしているが、夫人はキリシタンであり、教えの通り自害をよしとせず、家臣により刺し殺されたのであり、夫人を断じた小笠原少斎は自刃し、岩見がガラシャ夫人の周りを火薬で爆破して火に包み、自身も自刃して果てた。


 この壮絶な最期を聞き及んだ三成は、さすがに唖然とし、今後他の人質作戦からは手を引くよう命じた。三成にとって、戦わない武将の妻子が理不尽な最期を遂げることは、徳川打倒の大義明文があっても、許して続けていくことはできなかった。


 細川ガラシャ夫人の最後の様子は、当時明智氏より仕えていた霜女が、晩年の正保5年(1648)2月29日に、筆記書きさせた記録が残っている。48年後とは、多少記憶違いはあるかもしれないが、大筋はわかるであろう。


  秀林院様、御果てなされ候次第の事


一、石田治部少乱の年七月十三日に、小笠原少斎、河北石見、両人御台所みだいどころまで参られ候、私を呼び出し申され候は、治部少方より、何れもあづまへ御立ちなされ候大名衆の人質を取られ申し候由、風聞仕り候が、如何いかが仕り候はんと申され候故、則ち秀林院様へ、其の通り申し上げ候へば、秀林院様御意なされ候は、治部少と三斎様とは、兼々御間かねがねおんなかあしく候まま、定めて人質取初めには、此方こちらへ申し参るべく候、はじめにて無く候はゞ、余所よその並も有るべきが、一番に申し来り候はゞ、御返答如何いかが遊ばされて能く候はんや、少斎、石見分別致し候様にと、御意なされ候故、其の通り私承り、両人へひそかに申し渡し候


一、少斎、石見申され候は、彼の方より右の様子申し候はゞ、人質の出し候はん人御座なく候、與一郎様、與五郎様はあづまへ御立ちなされ候、内記様は江戸へ人質に御座候、唯今爰元ただいまここもとにて人質に出し候はん人一人いちにんも御座なく候間、出し申す事なり間敷と申すべく候、是非ともに人質取り候はんと申し候はゞ、丹後へ申し遣はし、幽斎様御上おのぼりなされ、御出で候ものか、其の外何とぞ御指図これあるべく候まま夫迄それまで待ち候へと、返事致すべきと申し上げ候へば、一段然るべき由、御意御座候事


一、ちゃうこんと申す比丘尼びくに、御上様へ御出入仕り候を、彼方あちらより此人を頼み、内證ないしょうにて、右の様子申し越し、人質に御出候様にと、度々ちゃうこん申し候へども、三斎様御為に悪しく候儘、人質に御出候事は、如何様の事候とも、中々なかなか御同心なき由仰られ候、又其の後参り申され候は、左様に候はゞ、宇喜多の八郎殿は與一郎様奥様に付き候て、御一門にて御座候間、八郎殿まで御出候へば、其の分にては、人質に御出候とは、世間には申す間敷候儘まじくそうろうまま、左様に遊ばされ候へと申しいり候事


一、御上様御意なされ候は、宇喜多の八郎殿は、尤も御一門中に候へ共、是も治部少と一味の様に聞こし召され候間、夫れ迄も御出候ても、同前に候儘、是も中々御同心なく候故、内證にての分にては、らち明き申さず候事


一、同十六日、彼の方より表向の使い参り候て、是非是非御上様を人質に御出し候へ、左なく候はゞ、押し掛け候て取り候はん由申し越し候に付、少斎、石見申され候は、余り申し度儘たきままの使にて候、此上は我々共これにて切腹致し候共、出し申す間敷由申し遣はし候、夫より御屋敷の者共、覚悟仕り申し候


一、御上様御意には、誠押し入り候時は、御自害遊ばさるべく候儘、其時少斎奥へ参り、御介錯致し候様にと仰せられ候、與一郎様御上様へも、人質に御出しある間敷候儘、是も諸共もろともに御自害なさるべき由、内々御約束御座候事


一、少斎、石見、稲富、此の三人談合ありて、稲富は表にて敵を防ぎ候へ、其の隙に御上様御最期候様に仕るべき由、談合御座候故、則ち稲富は表門へ居申し候、左様さそうろうて、其の日の深夜の頃、敵御門迄寄せ申し候、稲富は其の時心変わりを仕り、敵と一所に成り申し候様子を少斎聞き、最早なる間敷と思い、長刀を持ち、御上様御座所へ参り、只今が御最期にて候由、申され候、内々仰せ合され候事にて御座候故、與一郎様奥様を呼び一所に御果て候はんとて、御部屋へ人を遣はされ候へば、最早何方いずかたへやらん御のき成され候に付、力なく御果てなされ候、少斎長刀にて、御介錯致し申され候事


一、三斎様、與一郎様へ、御書置なされ候、私へ御渡しなされ仰せ候は、奥の女房と私と両人には、落のき候て、御書置きを相届け、御最期の様子、三斎様へ申し上げ様にと御意なされ候故、御最期を見捨て候ては落ち申す間敷候儘、御供致し候はん由、申し上げ候へども、二人は是非落ち候へ、左なく候へば、此の様子御存知なされ間敷候儘、ひらにと仰せられ候故、是非なく御最期を見届け仕舞しまい候て、落ち申し候、内記様御乳人おちのとには、内記様への御かたみ遣はされ候事


一、私共御門へ出で候時分は、最早御館に火掛り申し候、御門外には大勢見え申し候、後に承り候へば、敵にては御座なく候由、火事故集りたる人にて御座候と申し候、敵参り候も、一定いちじょうにて見え候へども、稲富を引連御最期以前に引き申したるよし、これも後に承り申し候、則ち御屋敷にて腹を切り申し候は、少斎、石見、石見甥六右衛門、同じく子一人、此の分をば覚え申し候、其の外にも二三人果てられ候由に申し候へども、是はしかと覚え申さず候、こまごましき事は、書き付けられず候間、あらあらは大方かくの如くにて候、以上

  正保五年二月十九日                    しも


 概略を示せば、女中である「しも」は小笠原少斎と河北石見に呼び出され、諸将の妻子が石田方の人質とされているという。この屋敷にも使者が来たならどういたしましょうと内室に伺いを立ててくれというので、聞いてみると、治部少とは仲が悪いので、まずはここへ来るであろう。二人に理由を考えて対処するようにとを二人に伝えた。そこで、人質を出せと言われても、主人もご子息も関東へ出立しているので、幽斎殿の指図があるまで待ってもらうようにと話をまとめた。やがて、ちゃうこんという比丘尼が細川家に出入りをしているので、彼女が交渉の役目を持ってきたのであるが、夫人はどのようなことがあっても人質にはなりませんと拒否した。ちゃうこんは、であるならば、宇喜多の邸までおいでなさいませ。と、案を出したが、宇喜多も石田と仲間同士。それでは、人質となったと同じと断った。再度、大坂方は使者を出したが、切腹致してもお断りすると言い放った。

 大坂方は兵を持って邸を取り囲み、強引に内室を人質にしようとした。稲富なる者に上兵を阻止するよう門に向かったが、あろうことか大坂方を手引きしてしまった。

 少斎らはこれまでと、奥の間に向かい、内室は騒ぎを聞きつけ、與一郎の妻と相果てようとしたが、與一郎の妻は姿を決して逃げていた。内室は、少斎に介錯を頼むといって、守刀で胸を刺し、それを見た少斎は持っていた長刀で喉を刺し貫いた。そして、少斎はその場にて腹を切って自害した。

 覚悟を見届けた石見は、火薬を内室の遺体の周辺にばらまき火をつけ、自分もまた腹を切り最期を遂げた。

 「しも」は自分も内室と死をともにしようとしたが、自分の最期のことを忠興に伝える為に、落ち延びよと厳命されて、生き延び、この時の様子を知らせるものである。


 細川家の「藩譜採要」には、最期を次のように記している。


 さては心に懸る事なし、少斎介錯致し候へと仰せらる、畏り候とて長刀をひっさげ老女を先に立て参り候処、御櫛おぐし御手おてづらから上えきりきりと御巻上げさせ給へば、少斎左様にては御座なくと申し上げ候、心得たりと御胸の所を、くわっと御押し開きなされ候、少斎敷居を隔て候ひしが、御座の間に入り候事、憚り多く候へば、今少しこなたへ御出でなされ候へと申し上げれば、敷居近き畳に御居直おんいなおりなされ候、長刀にて、御心元おんむなもとを突き通し奉り候、少斎も爰にて御供仕るべく候へども、憚り多く候とて、表に立ち出で候、さてしとみやり戸を、御死骸のほとりにとりかけ、御自害の間より、奥の戸口迄、鉄炮の薬をまき続け、火をかけ、少斎、無世一所にあって、武士も武士によるべし、日本に名を得たる越中守の妻、敵の為にとりこにならんやと声々こえごえに呼ばわり、一同に切腹致し候。

 

 また、ガラシャと呼ばれたように、キリスト信者であった為、耶蘇宣教師の記録にもこの話は記載されている。


「日本西教史」によれば


 夫人は侍女をして強いて他室に退去せしめんと欲し、これを説諭して曰く。汝等皆基督教信者なり。而して死に殉ずるは天主の禁制なりと。是に於て侍女等已むを得ず夫人の命に従い各自其室に遅くに及んで護衛兵は夫人の室に入るに、夫人は顔面清艶せいえん、心衷湛然たんぜんおもむろに護衛兵の傍らに近づき其坐に就き、基督及びマリーの名号を唱え、衣襟を開き首を延べてかいしゅに任せければ、護衛長臣はこれを礼し、刀を抜て首をし、護衛兵直ちに絹褥けんじょくを以て其死骸を覆い、上に火薬を散乱し、而して夫人の死骸ある同室に於て自殺するは甚不敬はなはだふけいなりとして他室に退き、戸を閉じ、各人刀を取り腹を十字に割破し、護衛兵の中一人存在して火を放ち、邸内の一部を焚焼ふんしょうしければ、高堂大厦たいか一時間にして尽く灰燼となれり。諸宮女は護衛兵に追い出され、直ちにオルガンタン師を過訪して、此残忍の死を告知せしに因り、師は非常の悲嘆を為せり。(中略)

 丹後侯の邸第鎮火の後、オルガンタン師は厚礼を以て夫人の葬式を行う為めに基督教を奉ずる宮女等を遣し、夫人の遺骸を収拾せしむ流に、宮女等半ば焼失する骸骨を得るに因り、教師等心を極め力を尽し、壮麗を極め之を埋葬せり。


 こうして、明智光秀の娘・ガラシャ夫人は壮烈な最期を遂げた。この事件が関ヶ原の前における悲惨な出来事の最大であったろう。以前に、秀吉が柴田勝家との北ノ庄城にて、お市の方が、勝家に殉じて自害した事件が想い起こされるであろう。


 ガラシャ夫人は基督教信者であったが為、自害できず、家臣の刃にかかって最期を迎えたのである。家臣にとっても辛いことであったろう。だから、少斎、石見ともどもお供をしたのである。このとき、大坂方に寝返った稲富は、稲富流砲術の開祖であるが、忠興の恨みをかい、命を狙われたが、家康に其の腕を買われて助命され、松平家に仕えた。


 特技から命を拾った一例といえようが、他の武将からは裏切り者と思われたであろう。

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