第19話 家康弾劾状

 17日、毛利輝元は大坂城西の丸にいた家康の留守居衆佐野綱正を追い出して、そこに入った。秀頼公の本丸には子の秀就を送りこんだ。また、この日、三成や宇喜多秀家、三奉行が集まり、家康の弾劾状が発給され、西軍への誘致文が全国へ放たれた。


 その弾劾状は、


「急度申し入れ候、今度景勝発向の儀、内府公上巻の誓詞ならびに太閤様御置目にそむかれ、秀頼様を見捨てられ出馬候間、各申し談じ、楯鉾に及び候、内府公御違の条々、別紙に相見え候、この旨尤と思し召し、太閤様の御恩賞を相忘れず候はば、秀頼様へ御忠節有るべく候」


 という内容で、三奉行の連名が添えられていた。そして別紙に十三条の項目が書かれていた。


   内府ちかいの條々


一、五人の御奉行、五人の年寄共、上巻誓紙連判候て、幾程もなく年寄共内二人追いこめられ候事

  (五人の奉行、五人の年寄にて誓詞連判していくほどもない間に年寄りの二

   人を追い籠めたこと)


一、五人の奉行衆の内、羽柴肥前守の事さえぎって誓紙を遣され候て身

上既に果たされ候処に、先ず景勝討ち果たすべき人質を取り、追い籠め申され候事

  (五大老のうち前田利家が亡くなると、景勝を討ち果たすべくとして、人質

   をとって追い籠めたこと)


一、景勝何のとがもこれなきに、誓紙のはずを違へ、又は太閤様御置目に背かれ、今度討ち果たさるべき儀、歎かわしく存じ、種々様々其のことわりをし候へ共、ついに許容なく出馬なされ候事

  (景勝には何の咎もないのに、誓紙を違え、また太閤様置目に背き討ち果た

  すべきではないと種々様々にその理由を申し上げたが、ついに許可なく出馬

  した事)


一、知行方の儀、自分に召し置かれ候事は申すに及ばず、取次をもある間敷由、是又上巻誓紙の筈を違へ、忠節もこれなき者どもに、いだし置かれ候事

  (知行のことは、自分で召し置くのは言うまでもないが、取次もしてはなら

  ないと誓紙で誓ったはずであるのに、忠節もない者に知行を出し置いている

  こと)


一、伏見の儀、太閤様仰せ置かれ候留守居共を追い出され、私に人数入れ置か

  れ候事

 (伏見城の太閤様が置かれた留守居どもを追い出し、勝手に家臣を入れたこ

  と)


一、拾人の外、誓紙取やり有る間敷由、上巻誓紙に載せられ、数多取やり候事

 (五大老、五奉行の十人の他は誓紙をとりかわしてはならないとしたのに、多

  数とりかわしている事)


一、政所様御座所に居住候事

  (政所様の御座所に居住していること)


一、御本丸の如く、殿守てんしゅをあげられ候事

  (御本丸のように、大坂城に天守をあげたこと)


一、諸将の妻子贔屓々々ひいきびいき候て、国元へ返され候事 

  (諸将の妻子を、えこひいきで国許へ帰していること)


一、縁辺えんべんの事御法度に背かれ候について、各其の理を申し合点候て、重ねて縁辺其の数を知らざる事

  (大名間の縁組、ご法度に背いたことについて、その理に合点したはずなの

   に、重ねて縁組をしている事)


一、若き衆にそくろをかい、徒党を立させられ候事

  (若い衆をそそのかして、徒党を立てている事)


一、御奉行五人、一行に一人いちにんとなし判形はんぎょう候事

  (大老五人で行うことに、一人で署名している事)


一、内縁の馳走をもって、八幡の検地をゆるされ候事

  (内縁の者に馳走する理由で、八幡宮の検地を免除した事)


右誓紙の筈は、少しも相立てられず、太閤様御置目に背かれ候へば、何を以て頼みこれあるべく候や、かくの如く一人ずつ果たされ候ての上、秀頼様御一人取り立て候はん事、誠しからず候也

(誓紙のはずが少しも立てず、太閤様の置目に背き、何を信頼すれば良いのでしょうか。秀頼様お一人を取り立てることも本当にこととは思われません)


  慶長五年七月十七日


そして、二大老の書簡も発して、その正当性を主張し、こちらに味方するよう促している。


 わざわざ申し入れ候、去年以来内府御置目に背かれ、上巻誓紙にたがわるるのほしいままの働き、年寄衆より申し入れらるべく、奉行年寄一人ずつ相果たされ候ては、秀頼様いかで取立てらるべく候や、其の段違いに存じ詰め、この度各申し談じ鉾楯むじゅんに及び候、御手前も定めて御同然たるべく候、この節秀頼様へ御馳走あるべき段、申すに及ばず候か、御返事待ち入り候、恐々謹言

  七月十七日

                         安芸中納言輝元

                         備前中納言秀家 



 この文書を諸国の大名宛に送ったのである。この後、西軍へ参加する大名が続々と大坂に集まり始めた。ついに一大決戦の幕は開けようとしていた。


 その頃、江戸城にいた家康は、ある報せがいま届くか待ちわびていた。西国にいる親家康派の誰かが、きっと火急な報せを届けてくれるであろうと、予測していた。


 7月11日佐和山城で三成、大谷吉継、増田長盛、安国寺恵瓊が会談し、家康と戦うことを決した後、増田長盛は密かに書状をしたため、江戸に向かわせた。永井右近大夫宛てである。家康の祐筆の一人だ。同時に、家康陣中にある豊臣恩顧の大名にも、家康打倒を掲げた檄文が届けられた。


「増田長盛より火急な密書が届きましてござる」

「届いたか」


 家康はその書状を広げて見た。


『一筆、申し入れ候 今度垂井において大刑、両日相煩い、石治少出陣の申分、ここもと雑説申し候 なおおいおい、申し入るべく候 恐々謹言 七月十二日』


とあった。思った通りにことが起きた。この書状が届いたのが19日前軍が出陣した日であった。


「治部少輔、動きおったわ」

「殿、すぐ軍勢を集め、大坂へ向かいまするか」

「いや、少しこのまま知らぬふりをしておこう」


 家康は、各大名にも三成からの密書が近日中に届くであろう。そして、大名等の所存を確かめてからでもよいと思った。


「予定通り、会津へ出陣いたす」


 ここに一人、どちらに味方するか思案に苦しむ武将がいた。島津義弘である。できれば、家康に味方したいという気持が強かった。


 家康は、秀吉の死後、島津氏に近づいた。朝鮮戦役から帰国する義弘・忠恒父子は、上洛して伏見の邸宅にいた。が、領国都城に居を構える伊集院家との不和が出来する。伊集院家は島津家の分家であったが、秀吉に取り入り気に入られていた。忠恒が伏見屋敷での茶会に伊集院忠棟を誅殺してしまう。これを知った子の忠真は都城に立て籠もり、島津との争いとなった。これを斡旋し和睦したのが家康だった。そのこともあり、義弘は家康には恩義が多分にあった。


 家康が伏見から江戸に東下するとき、義弘は伏見の留守よろしく頼むという文を受理していたのだった。そのために、義弘は、石田三成からの使者の申し出にもかかわらず、家康に味方しようと、手駒僅か三百の家臣郎党を引き連れて、伏見城の門を叩いたのである。


 しかし、結果は裏切られた形となった。


「鳥居彦右衛門尉殿に取り次がれよ。島津義弘、内府殿の命により、伏見を守らんが為、罷りこし申した。ご開門あれ!」

「これより一兵たりとも入城をさせぬゆえ、お引取り願いたい」


 鳥居元忠は島津の申し出は即刻拒否した。当然、島津の応援はありがたかったに違いない。しかし、元忠は家康が言明したいかなる者も城内にいれるでないということを実践したのである。


 島津の徳川に味方するという願望は絶たれた形となった。もはや四面楚歌になるうえは、運を天に任せ三成に味方するしかなかった。三成としては、島津が陣営に加わったことは、大きなことだった。率いる軍勢の数は少なくとも、義弘の武勲を見れば、千人力であった。

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