第23話 真田家の決断 犬伏父子の別れ

 伏見城での攻防激しい中、7月21日家康は江戸城を出発し、22日には岩槻に達していた。この日、急使が伏見より駆けつけ、西軍が伏見城を包囲する一報が届けられた。家康は、まだ反転する意志を出さなかった。また、上杉討伐に加わるべく徳川軍に参加した軍勢のうち、信州上田の真田昌幸、幸村と沼田の信之の軍勢が、家康の招集に応じて上田城を出発、途中沼田にて信之軍と合流し向かっていたが、上州大山にて三成からの密書ー家康弾劾状ーが届いたのである。考えることのあった昌幸は、前を行く信之と幸村とに連絡をとり、下野犬伏にて集まった。21日のことである。


 このとき、その前日には、大谷吉継から娘婿の真田幸村宛に、自分が大坂方として三成に尽力する決心をしたこと、できれば、秀頼を助けて欲しい旨を告げ、真田の力が唯一の頼みとしてあった。幸村はそれとなく昌幸の考えは察しがついていた。三成、大谷にとって真田の加勢は大きな力であった。それもそのはず、徳川軍を撃破した経歴を持つ大名は、真田父子しか生存する武将はいなかったからである。それだけに、家康は、真田を敵に回したくなかったし、三成らは味方に欲しかった。信之が父昌幸の陣所を訪ねた。弟幸村はもう陣所にいた。


「父上、石田三成からの密書が届いたと聞きおよびましたが」

「うん」

と言うなり、密書と密書に添えられている檄文を見せた。


「兄上、大谷殿より某にも密書が届いております」

と、幸村が言った。

「大谷殿は西軍についたか?」


 信之は、大谷吉継は義理堅い武将ゆえ、いずれ三成につくであろうと思っていたが、これほど早く事が運んでいるとは思わなかった。吉継と幸村は吉継の娘を嫁にしており、縁戚の関係にあったが、その書状には三成と力をあわせ、豊臣家を守って欲しいことがしたためてあったが、もし万一家康についても遺恨はないともあった。


「父上、われらはこれよりいかように動けばよろしいのでしょう」

「そうじゃの、決めねばのぅ」


 昌幸は天文16年(1547)に幸隆の三男として生まれた。幸隆は当時甲斐国主武田信玄に仕え、服属の証として昌幸を人質として甲府へ送った。信玄は名門である武藤家を昌幸に継がせ武藤喜兵衛と名乗らせ、信玄の小姓としてとりたてた。しかし、群雄割拠する戦乱の世は、武田家にも暗雲がたちこめてきた。信玄が没して後勝頼が家督を継いだが、長篠の合戦において織田徳川の連合軍の前に自慢の騎馬軍団が壊滅し、真田本家の長兄信綱次兄昌輝ともに戦死してしまい、昌幸が本家を継ぐ運命になったのである。昌幸このとき29歳であった。


 真田を継いだ昌幸は戸石城を本拠として上野への足掛かりを求め、謀略をもちいて岩櫃城と沼田城を手中に収めた。この沼田を手に入れたことが後にその表舞台に昌幸が登場することになる。昌幸は名将武田信玄に勤仕したことで、色々な戦術だけでなく、戦略もいつのまにか身につけていた。これが、信玄亡きあとも大いに役立つ宝となり、武田家滅びの経験はさらに乱世を生き抜く処世術をも身につけることとなった。


 主家武田家は徐々に衰退の一途をたどり天正十年天目山で最後を遂げた。昌幸が家督を継いでから七年がたっていた。昌幸は坂東の覇者北条氏と織田信長とに臣従の態度を見せて、じっと状況を眺めていた。すると、信長は本能寺で横死して政局は再び不安定となり、このときとばかり甲州や信州は上杉、北条、徳川によって争奪の土地と化した。沼田の土地の問題にからみ、昌幸は家康に決別に及び、上杉に心を寄せた。その仕打ちに家康は激怒り、上田城攻略の軍を起こしたのである。 昌幸は、奇略を用い徳川軍を翻弄し、寡兵よく大軍を打ち破った。しかし、対陣する間もなく徳川軍は内政事情により、撤退を決め、昌幸は決定的な打撃を与えることはできなかった。その時の模様を思い起こしていた。


 しばらく昌幸は考えていたが、場所を移して話そうと考えた。この陣所のどこに間者が潜んでいるのかわからない。警護の者を数人連れて夜陰にまぎれて古びたお堂に入っていった。さらに外には当然忍びの者が見張りについていた。


「上杉征伐の兵を家康が挙げた。景勝殿にもわしは恩義がある。上杉と合戦に及ぶことは真意と反する。景勝殿は秀頼公に対して逆心なきことを証すため家康に対抗したまで。三成が兵を挙げた。三成にも恩義がある。だが、信之は本多殿と親戚筋にあたる。真田としては家康につくか、三成につくか大事な事である。家の存亡をかけた大戦となろう。二人の思いを聞きたい」

「父上、かくべつに家康の恩を蒙ったわけではござりませぬが、本多殿の親戚筋としてここまで供を一緒にしながら心変わりをいたしても、不義というものです」


 信之は力強く昌幸に訴えた。が、昌幸は言った。


「信之の道理はそうじゃ。だがそれだけでは人の心は動かせぬ。わしは、家康に頭を垂れる積りはもうとうない。いかなることになるかも知れぬが、この時こそ大望を遂げる絶好の機会でもある。秀頼公の為にも三成に加勢する」

「父上、ですが諸国の大名は家康に味方することは明白とぞんじます。利は家康にありと思います。三成が勝つとは思えませぬ」

「そうかな、この一戦は五分と五分どちらに転ぶかわからぬと見た。勝負は時の運もある。わしは家康にいま一度一戦を交えたいと考えておる」

「万一、大阪方敗れれば、某の軍功にかえて危難を救いて真田家を救います」


 昌幸は、徳川に勝利した時のことが脳裏に浮かんでいたが、その思いには、完膚なきほど打ち破ったものでないことに悔いが残っていた。今一度戦い、今度は是非にも打ち破りたいと思った。


「兄上、兄上は本多とご縁者になり申したが、それはあくまで私事のこと。大阪敗れれば、救い給うとのことなれど、敗れれば我ら命いかなるものかわかりませぬ。かって家康が上田を攻めたおりは、なんとか退け申したが、家康北条と上田を攻めんとした時は、景勝殿の後詰があり、太閤殿下の下知による和議にて、恩を十分に受けております。その恩を我すれ、家康に従うは義に反します。故に、父とともに戦います」

「幸村の言い分はわかった。父上とともにゆくがよい」


信之は諦めた表情で言った。

昌幸は締めくくった。


「幸村は、わしとともに行動を同じくするがよい。父子兄弟別れて戦うのも戦国の習い。それもまた生き延びる知恵じゃ」

「では、父上。この信之は家康に従いますゆえ、ここで別れとなります」

「あいわかった」

「兄上、息災に」

「おまえもな」


 真田家はついに父昌幸と幸村対信之との二つの選択にその後の命運がかけられた。

 昌幸の思いは、佐和山の三成のもとへ届けられた。その内容は残っていないので、詳細はわからないが、三成がそれに答えた答書が残っている。


 去廿一日両度の御使札同廿七日江佐に於て到来拝見せしめ候

一、右の両札の内御使者持参の書に相添う覚書並に御使者口上心得候事


一、先ず以て今般の趣兼て御知も申さざる儀御腹立ち余儀なく候、然れども内府大阪にあるうち、諸侍の心いかにも計り難きにつき言発の儀遠慮仕り畢んぬ、就中貴殿の事、とてもは公儀御疎略なき御身上に候間、かくの如く候上はいかでとどこおりあるべき候や、いずれも隠密の節申し入れ候ても世上成立せざり候ぬ付ては、御一人御心得候ても専なき儀と存じ候と思慮す、但し今は後悔に候、御存分余儀なく候、然れども其の段ももはや入れざる事に候、千言万句申しても太閤様御懇意忘れ思し召されず、只今の御奉公かなう所に候


一、上方の趣、大方御使者見聞し候、先ず以て御内儀方大刑部馳走申され候の條、御心易かるべく候、増右、長大、徳善も同前に候、我ら義は使者見られ候ごとく、漸く昨日伏見迄罷り上ぐ体に候、重ねて大阪御宿所へも人を進め候て御馳走申すべき候事


一、今度上方より東へ出陣の衆、上方の様子承られ悉く帰陣候、然ば尾濃において、人留せしめ、帰陣候一人一人に所存承り候の儀、秀頼様へ疎略なき究め仕り、帰国候様に相分け候事


一、大略別條なく、無二の覚悟に相見え候間、御仕置に手間入る儀これなき事


一、長岡越中(細川忠興)儀、太閤様御逝去以後、彼ひと第一徒党の大将を致し、国乱を雑意ぞういせしめたる本人に候間、即ち丹後国へ人数差し遣わし彼の居城乗っ取り、親父幽斎在城へ押し寄せ、二の丸迄討ち破り候処、命計赦免いのちばかりしゃめんの儀、禁中へ付て御侘言申し候間、一命の儀差しゆるされ彼国平均相済み、御仕置半ばに候事


一、当暮来春の門、関東御仕置のため、差し遣さるべく候、よって九州、四国、中国、南海、山陰道の人数、既に八月中を限り、先づ江州に陣取り、並に来る兵糧米、先々へ指し送るべきの御仕置きの事


一、羽肥前(前田利長)儀も、公儀に対し毛頭疎略なき覚悟に候、然りと雖も老母江戸へ遣し候間、内府へ疎略なき分の体に先づ致し候間、連々公儀如在に存ぜず候條、各御心得候て給い候へとの申され分に候事


一、箇條を以て仰せ蒙り候所、これまた御使者に返答候、又此方より條目を以て申す儀、此の御使者口上に御心得肝要の事


一、此方より三人使者遣し候、右の内一人は貴殿返事次第案内を添えられ此方へ返し下さるべく候、残り二人は会津へ書状共遣し候條其の方よりも慥かなる者御そへ候て、沼田越にて会津へ遣され候て給うべく候、御在所迄返事持参帰り候はゞ、又其の方より案内者一人御添え候て上着待ち申し候事


一、豆州左衛門殿別紙を以て申し入るべく候と雖も、貴殿御心得候て御達せらるべく候、委細使者を以て申し伸ぶべく候     恐惶謹言

   七月晦日                    三成

    眞 房 州


 この書状には、田辺城のことは開城を予想してのこと書いているが、当然味方の勝利を早くも予言して伝えているのが興味深い。そして、尾張美濃を戦闘の分岐点と考えているのもわかる。

 

 信之は小山の秀忠本陣に出向き、昌幸と幸村は、赤城山麓から沼田を経て、上田城へと帰還した。上方と昌幸との間にはその後やりとりがあるが、それは後章にゆずる。

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