第11話 会津の上杉景勝の動静
8月に上杉景勝が本国会津に帰国する間際、直江兼続の家臣が、三成の家臣と密会して書状を取り交わした。その内容は、別段なにもないような文面だった。三成は兼続に豊臣家の今後を依頼しているものであり、兼続は、転封まもない会津の領内の普請をこの帰国した際に、じっくり見ておきたいという内容だった。
「兼続、領内の状況はどうじゃ」
「殿、数日かけて視察した所、やはり道普請、橋普請、城普請が至急に肝要かと存じます」
「若松の城のことだが、あの小田山が気になる」
「やはり、殿も気になりますか」
「うむ。あそこを取られては城内の様子がまる見えじゃ」
「そう思うて、この先の神指村に良い場所を見つけてござる」
「さすがは与六、よくやった。すぐさま城普請にかかれ」
景勝は二人だけだと、ついつい兼続の幼名で読んでしまうのだ。
「もはや下準備は整っております」
「何もかも段取りが良いのう」
「はっ、奉行らにすでに命じて普請を始めてはおりますが、何分人足をそろえるのが時間がかかりまする。少し金子が必要かと」
「越後での蓄えがまだ十分あろう」
「はい、転封でかなり浪費いたしましたが、まだ大丈夫でございます」
「夏までには完成させよ」
「はっ、必ずや」
蒲生家が普請した若松城は、立派であったが、知行に合わせて更に拡張しようとすると無理があり、東南にある小田山の存在が、難攻不落の要塞を築くには問題があると地勢的に思った。この懸念は、ずっと先の幕末会津官軍との戊辰の役に、官軍は小田山に大砲を備えて若松城めがけて撃ちこんだことを思えば先見の明があったと言わねばならない。
景勝は120万石の大身となり、家臣の数も譜代の家臣に加え、新たに加増になった分の新規召しかかえの家臣も必要となり、従来の若松城では手狭になり、拡張そのものも難しいのだ。だとすれば、新しい防備の固い城を築いた方が良いのだ。
集めた人足は8万とも10万とも言われたが、ともかく本丸は慶長5年3月18日より二の丸は5月10日より始められた。本丸は東西約100間(約180米)南北170間(約305米)、二の丸は東西260間(約470米)南北290間(約520米)という規模であったという。
突貫工事であったことは確かで、6月には完成をみたという。
「殿、陸奥での備えはいかに考えましょうや」
「伊達、最上と一筋縄ではいかぬと思われますが」
「うん、特に伊達には備えを構えなければなるまい」
「会津は、越後と違って峻険少なく、守りにくいところでございます。平原にて一大決戦をするか、壮大な城を築いて籠城するか、であろうと思われます」
「鉄砲も多くいるであろう。その調達も考えよ」
「はっ、しかし、ここは国友より遠く、ちと
「上方にいる者にしかと申し伝えよ」
「ところで、兼続、領内に徳川の間者は潜んでおろうか」
「多分。特に伊達、堀、戸沢の間者が領内に潜んでおる様子。今のところは何の処置もしておりませぬが」
「それでよい」
「治部少輔からはその後なんの沙汰もないか」
「今のところ何もございません。また、京のわが邸からも何もありませぬ」
上杉の諜報網も、謙信以来築き上げてきた、優秀なものを持っており、
「そうか。内府がどう出てくるかだな。二心なくば前田のように人質を差し出せと申して来るやも知れぬな」
「それが内府の手にございます。でなければ、取り潰す考えかと」
「そう勝手に内府が豊臣の屋台を好き放題されては迷惑じゃ。少しは遠慮してもらわねばなるまい」
「豊臣の大名衆は大方内府についております。皆改易は怖いのでありましょう」
「上杉とて、数万の家臣がおる。これを浪人さすわけにはいかぬ。しかし、それでは太閤殿下への義が立たぬ。義は謙信公以来のわが上杉の要。義のためには旗をあげるしかあるまい。さすれば、与六よ。良い策を考えよ」
「はっ、最善を尽くしまする」
3月出羽山形の城主最上義光が上京した際、隣国会津上杉領内の様子を家康は直接聞いた。当然、密偵を使っての情報蒐集だった。
「上杉はもはや戦の準備に追われています。領内の普請と申していても、それは戦のためにほかなりませぬ」
「そうか、よくぞ知らせてくれた」
家康は、陸奥への討伐を考える時が来たことを思っていた。
また、景勝の重臣の一人である津川城代を勤めていた藤田信吉が、景勝兼続の反徳川に反発して、会津を出奔し、江戸の徳川秀忠の元に走った。秀忠は、藤田より会津の様子をつぶさに聞き、家康にもその状況を伝えた。家康は、「景勝に謀反の疑いあり」と考えて、上杉征伐の決意を新たにした。
一方、会津では3月13日故謙信の二十三回忌の法要が催され、各城主は若松城に会合した。小峰城主
東国から聴こえてくる声は上杉が軍備を整えて、戦支度をしているということばかりであった。上杉景勝としては、転封となり、新しい会津での治世を考えると、やることばかりであった。長く越後を支配して、漸く治世の基盤が整ってきたことに、領地替えである。更に、石高が倍になり、養う家臣も増える。京、大阪より本国に戻れば、やることばかりである。そのような所業を近隣の諸侯は、家康に対して謀反があるのではないか、という疑いの目を向けてくるのだ。そして、家康に報告しているのだ。そして、三成と景勝の忠臣直江兼続との懇意であったことも理由になる。
家康としては、どうしても上杉を叩いておかねば、この先が不安であった。
しかし、家康の意向を押し留めたのは、毛利輝元と宇喜多秀家の大老と増田長盛らの奉行であった。
「内府殿、景勝とて故太閤殿下の五大老の一人として、重責をになったお方、やたら謀反の企てを巡らすとは考えられぬ。故謙信公の武門の家柄として、武道の道にあるまじき謀反を起こすとは考えられぬ。大名たる者、領地の普請を図るのは当然至極のことと存ずる。ましてや、会津へ転封になり僅かの月日しかたっておらず、帰国早々領内の普請をいたす所業は当然ともいえよう。この際、どうであろう。景勝殿に上洛を促してはいかがか。それが筋というものでござる」
輝元が言うと、秀家もその意見に賛同した。こうなっては、家康としても断固征伐の軍をすぐさま起こすとは言えなかった。
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