第7話 前田利家の死

 家康が訪問してから20日あまりして利家は息を引き取った。前田家にとっても心柱がなくなった一大事であったが。豊臣政権にとっても歯車がこわれようとしていた。


 利家は自分の最期が迫っていることを自覚した時、夫人まつを枕元に呼び寄せ、11か条の遺言を口授して筆記させた。


まず第一に語ったことは


「孫四郎儀、金沢へ下し留守を任せよ。兄弟の人数一万六千程はあるべし、兵を八千ずつにわけ、半分は大坂に詰め、残りの半分は金沢に止めよ、孫四郎にしかと申し付けよ。上方に何か起こり、秀頼様に謀反を働くものあらば、八千の兵を孫四郎が引き連れよ。金沢の留守は、篠原出羽と利長が信頼できるものを選び、孫四郎上洛の折は、一手に任せことに当たるべし」


と言い、今後紛争が起きるであろうことを予言したかのように遺した。

そして、亡骸は、

「長持に入れ金沢へ下し、野田山に塚をつかせ葬るように」

と遺言した。


 遺言状は少々長いが、以下に引用しておく。


一、我等わずらい彌爾々いよいよしかじかこれなく候の間、相果て候はゞ、長持に入れ金沢へ下し、野田山に塚をつかせ申さるべく候、則ち我等死骸と一度に女ども加賀へ下し、申さるべく候事


一、孫四郎義、金沢へ下し留守居に置き、兄弟の人数一万六千ほどはこれあるべしと存じ候、八千あて替えさせ大阪に詰められ、半分金沢にこれある人数は、孫四郎下知に付く様に申し付けられ、自然上方に申分出来、秀頼様に対し謀反仕り候者候はゞ、八千の人数を召連れ、其の時は金沢の城の留守居には篠原出羽に、貴殿の内にてなじみ深き者を一人相添い置かれ、残り人数孫四郎上洛、則ち一手に罷りなり候様に仕置仕らるべく候、然ば出羽の事、せがれより我等かたわらに召仕え、心持ち存じ候、片口なる律義者にて候の間、城など預り置き候て能者よきものに候、其の上末森の時分、若年に候へども、手前殊の外能く候、我等娘婿に致し候、関東陣の刻も八王寺にて能く候、然る処姪相果て候に付て、青山佐渡婿に仕うべきの由女共うわさ申し候間、跡にて如何様にもと申す事に候


一、其の方子もなく、兄弟にも孫四郎ばかりの義に候間、利長に対し非義致すまじく候、大納言同前に、親とも兄とも存ずべく候間、誓書を利政に書かせ置き候間これを進め候、御覧あるべく候、いよいよ子と思はれ、万事形義ぎょうぎ能くなされ候様に、異見致されもっともと存じ候事


一、我等隠居知行の事、石川郡、河北郡、氷見庄肥前殿へこれを進め候、能州四郡一万五千石孫四郎へ之を遺し候事


一、判金千枚・脇指三腰・刀五腰、札を付け置き候、孫四郎に之を遺し候間、御渡しこれあるべく候、其の外遺物に遺し候金銀、申し置くごとく遺さるべく候、其の外一々いちいち日記にして、残らず利長へこれを進め候事


一、金沢にこれある金銀諸道具、是又いずれも其の方へこれを進め候なり、しかれば三年加州へ下り申す義無用に候、其の内何とぞらちあき申すべき事


一、兄弟に申し置き候、第一合戦のきざみ、敵のあぜきりなりとも踏み出し尤もに存じ候、他国より押込められ候は、草の陰にても尤と存じまじく候、跡々あとあと信長公少人数の時より、何時いつも御国内にて合戦なされたることなし、敵国へ踏み入れ度々どど利を得られ候事


一、奉公人の義は、早二十年ほど召仕え候は、其の家の作法に能く存じ候間、本座は同然に候、利家人数、佐々内蔵助と取合の刻、又は関東松枝、八王寺、うわさにいたし又乗崩し候時分も、新坐者を聞及び、過分の知行遣し呼び寄せ候えども、本坐者を越す事

我等家に限らず、信長公尾張一国御手に入れ候刻より、本坐は新坐に越されたる事なし、万事に付て、本坐を捨る事越度おちどたるべき候、人は出来不出来はある者にて候間、はや其の方は三ヶ国の主候の間、万事心持ち大事に候、近所に依怙ひいき無い者を四五人も誓紙をさせ召仕えられ候て、外様なりとも家久しき者は聞き立て呼び出し、召仕えられ候て見られ尤に候、其の上新坐者は我身威勢の時は、奉公仕る者に候、自然手前悪き時は、其の身のかたつきを本として、結局表裏を致す者に候、又本坐者は、日頃主人へ対し不足を存じ候者にても、左様の時は其の身の為を存じ遁れざる者なり、此の義は申すに及ばず候、信長公御遠行の刻、安土より其の方内儀を引連れ逃るる刻、路次にて本坐新坐の覚これあるべく候、其の心持ち肝要の事


一、武道ばかりを本とする事あるまじく候、文武二道の侍稀なる間、分別位能ふんべつくらいよき者を見立て聞立て、ケ様の者は新坐にても情をかけられ召仕え苦しからず候、我等も一代本坐に仕置となし、合戦の刻は先手をさせ候えども、ついに越度取らず候、第一諸侍身上成り候様に痛はり申さるべき事


一、長九郎左衛門、高山南坊、世上をせず我等一人を守り、律義人情の間、少しずつ茶代をも遣はし、情を懸られ然るべくと存じ候、片山伊賀の事、身上より大気を本と仕る者候の間、自然の刻は謀反する事これあるべく候、言葉にも念頃ねんごろの體を致し、油断あるまじく候、徳山五兵衛、世上を致し、国主共と、我ら影を持ち、知人になり候と聞及び候、我ら存生の間は、悪心を致し候ては足の立どもあるまじく候、主分別立なる者にて候間、時分を待ちこれあり候と見付け候條、我ら相果て候はゞ心表裏を企て申すべく候間、左様の仕置尤と存じ候、山崎長門、善者よきものにて候、越中取合の刻も、鳥越にて能く候、然ども意地悪しく、片むきなる武辺に候間、三十・四十の頭然るべく候、大なる大将御無用の事


一、村井豊後、奥村伊予の事、子供に家を渡し隠居致し、今程楽をさせ置き候、然れども相果て候はゞ、いよいよ情けを懸られ、髪をもそらせ申されず、祝儀などの刻も、此の両人家の老に候の間召仕え尤に候、其の上大事の合戦の刻も、右両人の者、左様のことも仕付たる者候の間、人数千人ほど充預あてあずけ、前後をも守らせ申さるべく候、伊予一頃ひところ我等と中たがいにて牢人致しこれあり候、越前義景陣の刻、はやき首を取り参り候間、其の時我等召置き、其の後内蔵助と取合の時分末森を預け置き候へば、持て余し忠節仕り候、豊後は江州金賀森と云所にて、佐久間玄蕃と一所にあり合い、一番乗り仕り候、其の上能く首取、信長公へ御目に懸け候、大坂合戦の刻は、我ら傍にて槍を突き、手柄を致し候、長篠合戦の刻は、我等と太刀打ち致し候、名ある者の首を取り候、此の義も常々其の方へ語り申し候、越中佐々内蔵助と取合いの時分は、末森の後巻先手てさせ又は蓮沼を焼き候刻も、度々先陣を申し付け候処、貴殿存知の如く度々手柄を致し忠節を仕る者に候、別して情を懸け尤に候、岡田長右衛門の事、算用などさせ候て能き奉公人に候間、主文言に過ぎ候と貴殿も存ぜざるべく候へども、是もなじみの者に候間、隠居分二千石取らせ候、但し此の者、貴殿奉公振り御宜く候て目懸けぶりは其の方の分別次第に候、次に青山佐渡、魚津を預け置き候、此の者律義人に候、彌情を懸けられ尤に候、神谷信濃守方へ宗半の娘遣すべきかと、おしょう申し候、貴殿分別次第に候


 右条々、心尽し候へども、口上には跡先忘れ候間、書付けこれを進め候、万事我ら相果て候はゞ、心持ち肝要にて候間、斯くの如く候。 以上。

  慶長四年三月二十一日             ちくぜんの守

   羽柴肥前守殿

                     (越登加三州志より読み下し) 


 閏3月3日利家は。享年62歳であった。法諡は高徳院桃雲浄見大居士とされた。遺骸は遺言の通り、野田山に葬られた。利家が薨じたことを知った後陽成天皇は従一位を贈った。前田利家の死は、豊臣家にとって大きな痛手であった。いや、三成にとって、頼るべき重大な一人がなくなってしまった。


「殿、豊臣の大事な柱が一つなくなりました。これからが見もの」

「ふふふ、・・治部がどうでるか楽しみぞ」


 家康は、利家が亡くなったことにより、豊臣の基盤が傾いていく姿を描いていた。今の豊臣恩顧の大名たちにとって、秀吉と天下泰平のための戦を経験してきた利家の存在は大きかった。また、利家は各大名の面倒をよく見たのである。秀吉以上に大黒柱を失った感覚であったに違いない。三成とは比べるものでは全くなかった。当然、今後頼るのは三成か家康かといえば、家康に手を挙げるであろうことは必然といえた。

 それは、石田三成の脳裏にも深刻さを与えていた。家康にますます諸大名は近くであろうことは予測できた。家康包囲網の一人、それも重大な人物を失ったわけであるから、三成も今後の政略も考えなくてはいかなかったが、事はもっと以外の方向に展開してしまうのである。豊臣恩顧の大名にとって非難する矛先は、三成に当然向けられた。いや、三成をおいて他にいなかったのである。

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