第9話

それからの事は、あまり記憶にない。


気付けば私はあったかい部屋の中にいて、おばあちゃんに抱きしめられていた。


真っ白い部屋の中で眠るのは、小さな男の子。その顔は恐ろしいほど白くて、冷たくて。


__ああ。

私が、殺した。


その言葉はすっと私の胸の中に入り込んできた。



涙は出なかった。その代わり、その時に初めての息苦しさを感じた。胸が苦しくて息がうまくできない。雨の中にいるみたいで、景色がゆがむ。

大好きだった雨の中に、水たまりの中に、閉じ込められて溺れているようだった。


あの日から私は雨が駄目になって、雨の日に1人で歩くことが難しくなった。


私を蝕む息苦しさは年をとる事に増して、そして高校生にもなれば、ただ笑って笑って笑って。そんなことでしか息苦しさから逃げられなくなっていた。


はるかは私のすべてを知って、そしてずっとそばにいてくれた。雨が降っていれば何も言わず家まで一緒に歩いてくれて、息苦しい私の背中に、優しく手を添えてくれる。

・・・私は、どこまで人の重荷になれば気が済むんだ。


「・・・馬鹿みたい。」


はっ、と自分で自分を笑う。降り続く雨に私の制服はもう重たくて。


このまま溺れてしまうのではないか。

雨の中に、あの日の水たまりの中に、閉じ込められてしまうのではないか。

苦しい、苦しい、苦しい。


どこからか車のタイヤが水を飛ばす音がする。

徐に立ち上がって、その音を、体が探す。


いっそのこと溺れてしまえば楽になれるのだろうか。もうあの宙に舞った水色の傘を、地面に裏返ったピンク色の傘を、


思い出さずに、済むのかな。


エンジンの音が近づく。

近づいて、私の傍を通る、その前に。



雨が、やんだ。



誰かが傘をさしてくれているんだと分かった。

その誰かは私の目線に屈んで、私の肩をつかむ。


「ねえ、水野さん。」


その手は、温かくて。



「俺やっぱ、雨が好きだよ。」



その言葉に思わず顔を上げれば、

目の前には橘くんの顔があった。


彼は見たこともないくらい真剣な顔をしていて。


「・・・俺、雨が好きだよ。」


そしてもう1度そう繰り返して、

私の体をゆっくりと包み込んだ。


ビックリして、けれど少し息苦しさが緩む。


「雨の音とかなんか落ち着くし、匂いとかも好きだし。」


耳元で橘くんの声が聞こえる。


「それに雨が降ったから、俺は水野さんと話すようになって、一緒に帰るようになって。」


そこまでいって橘くんは私の肩を掴んで、

真剣な目で、私の目を射抜いた。



「水野さんは雨が嫌い。でも、俺は雨が好き。いいじゃんそれで。足して2で割ればちょうどいい、一緒にいれば嫌なものも怖いものもないよ。」


水の中から手を引っ張られる。

ぐるぐると回っていた世界がピタリと動きを止めた。


さすがに暴論か、と彼は自分の言葉に呆れたように笑ったけれど、その瞳は優しくて。


「溺れそうになった俺が何回だって助けに行くよ。息苦しかったらずっとそばで背中をさすってあげる。」


瞳からこぼれた雫は、

雨と一緒に流れていく。


「だから大丈夫。

雨の日は一緒に歩こう。」



歪んでいた世界がゆっくりと形を作り始め、

そして、溺れそうな私の手は、

橘くんがしっかりと掴んでくれていた。

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