16
リュファス・シン・ジルベール=アヴァティアという第二王子は、幼い頃からすべてを諦めていた。
自分の決断一つで内乱が起きかねないことを、幼い頃からよく理解していたからだ。
だからこそ己を律した。無欲であれと自分に言い聞かせた。
今までそうやって生きてきて、そのおかげでバランスを上手く保てていたのだ。
これから先もそれは変わらないと、彼は本気で思っていた。
リュファスは無欲だ。
無欲のはず、だった。
――鐘の音を聞き、リュファスは瞠目した。
カーンカーンと、けたたましい音が町中に響いている。
これは……警告の鐘か。
それはつまり、魔物が出現し町に迫っているということを指す。
胸の内側にくすぶる激情を抑えつけながら、リュファスは立ち上がった。
「シンシア。君はこの屋敷にいなさい。領主の屋敷が一番安全だ」
「は……は、い。……リュファス様、お気をつけて」
「……ああ」
心配そうに見つめてくるシンシアの視線から逃れるように、リュファスは駆け足で外に出た。
落ち着け……今は魔物討伐に集中しろ。
そう言い聞かせないといけない程度に、今のリュファスの頭は混乱していた。
その理由は二つ。
一つ目は、シンシアに「なぜ自分の名前を知っていたのか?」と問われたこと。
そしてもう一つは、彼女の口からエリックの名前が出たことだ。
前者で大いに動揺したが、後者で畳み掛けられたことにより感情が表に出てしまったのだ。
……まさか、シンシアの口からエリックの名前が出ただけで、こんなにも動揺するとは。
動揺すると同時に、胸の内側にどろりとした感情が湧き上がってきた。
ギルベルトに絡まれているシンシアを見たときもそうだった。ひどくイライラして落ち着かなくなる。
あのときはシンシア自身がそっけない態度を取っていたのでそこまででもなかったが、エリックのときは違った。
仲良く見えたのだ。
今回はなんとか耐えられたが、次回があれば今よりもひどい態度を取ってしまうかもしれない。
だがあのまま話していてもきっと、シンシアを怖がらせただけだろう。声を荒げていたかもしれない。それは本意ではなかった。
「……くそ」
ぽつりと悪態が漏れた。
先ほどのそれはどう見ても、主人としても一人の男としても最低の行動だ。
シンシアともっと一緒にいたいという気持ちが、あの日の愚かな感情が今回のような傲慢な行動につながったのだとしたら、それは本末転倒だ。勘違いも甚だしい。
シンシアにとって一番の幸せであろう借金返済を願わず、強欲に願ったせいかもしれない。リュファスは改めて、自分の気持ちを胸の奥底に押し込めた。
そんな最悪のタイミングで、今一番会いたくない人が現れる。
ミルクティー色の髪をした優男、エリックだ。
「リュファス様、領民の避難は始まっているようです。距離は町から歩いて一時間ほどかかる草原だと、観測所が感知しました。魔物は上級が一体、中級が五体、下級が七体でした」
「……そうか。確認ご苦労だった、エリック」
「いえ。騎士団へ向かいますか?」
「ああ、総指揮を執る。わたしがいなくとも討伐できるだろうが……士気は上がるだろう。普段よりも数が多いし、強い個体もいる。いざというときに対処できるのは、我ら魔術騎士団だ。ロンディルス駐在騎士団の面目も立てつつ、魔術騎士団の体裁も保てる。これが最良の策だ。エリックはどう考える?」
「リュファス様と同意見です、それでいきましょう。それでは僕は、馬を連れてまいります」
「頼んだ」
本当に、びっくりするくらい優秀な部下だ。情報の収集も早く、頭の回転も早い。
リュファスが求めているものを考え、先に提示してくる辺りからも、その優秀さがにじみ出ていることだろう。
……私も、エリックくらい気の利く男になれたなら。彼女と一緒に出かけることができただろうか。
そんなどうしようもないことを考えている自分に気づき、リュファスは己に言い聞かせた。
無欲あれ、無欲あれ。
己の欲で他人を不幸にするくらいなら、無欲であれ。
なのに、シンシアの笑顔がチラついて離れない。
エリック以外の魔術騎士団第一部隊が集まったのを確認してから、リュファスは駐在騎士団へと急いだ。
騎士団は、様々な対処に追われていた。
魔物を討伐するための部隊が外に集まり、またある者たちは領民を安全な場所へ避難させている。統制は比較的取れていた。
そんな彼らは、臙脂色の騎士服と純白のマントを身につけたリュファスを見て瞠目する。
「今の作業をしたまま聞いてくれ。総指揮はわたしが執る! 普段よりも個体数は多いが、我ら魔術騎士団が補佐に入る。安心して戦いに臨んでくれ!」
それを聞き、騎士たちの顔から過度な緊張がほぐれるのを感じた。
それもそのはず。一般的な騎士団よりも、魔術騎士団のほうが強い個体を相手にしている。しかもそのうちの一人が一級魔術師ともなれば、安心感は段違いだ。
リュファスはエリックが連れてきた愛馬に乗ると、駐在騎士団を率い、魔物がいるとされている草原へと向かった。
道中、リュファスはエリックに問いかける。
「この辺りは確か、牧場があったな。そこの住民の被害状況は?」
「この辺りで被害が出ることは分かっていましたので、数日前から別の牧場にいたようです。動物たちもそちらにいるようですから、被害は最小限に抑えられるかと」
「そうか」
魔物が現れて一番困るのは、人間を襲うことではない。
確かにそれも恐ろしいがそれより先に、産業のほうに被害が出るのだ。それは食文化にも影響を及ぼす。
そうなると自然と、教会側が国に対して文句を言うようになるのだ。「この国の主神である豊穣神様がお嘆きになる」と。それは民草に不安として伝播していく。
それを最低限の範囲で食い止めるのが、リュファスの役目だった。
苛立つ気持ちを発散するために、リュファスは声を荒げる。
「総員、決して気を抜くな! ロンディルスを守る騎士としての矜持を、このわたしに見せてみろ‼︎」
『応‼︎』
騎士たちの咆哮が響き渡った――
*
騎士団が魔物討伐に向かってから、数時間経った。
外はすっかり暗くなり、ひとけもほとんどない。
そんな町に残っていたシンシアは、モンレー伯爵家のタウンハウスの客間にいた。ナンシーとレイチェルも一緒だ。
モンレー伯爵とマリアは、独自で所持している騎士団を使い領民たちを避難させたり、様々な対処に追われている。
三人は一応客という立場なので、何かあってはモンレー伯爵家の顔に泥を塗ることになる。だから三人はこうして一箇所に集まっていたのだ。
簡易ながらも寝る場所を整えてくれたのはありがたいが、とても眠れそうにない。三人は長椅子に座り吉報を待っていた。
ナンシーとレイチェルは慣れているためかそこまで悲壮的になっていなかったが、シンシアは不安で押しつぶされそうになっている。
(おかしいですね……オルコット領にも魔物が出ることはあったので、慣れているはずなのに……怖いです……)
あんな別れ方をしたせいだろうか。リュファスが帰ってこないかもしれないと考えたら、胸がぎゅっと締め付けられ押しつぶされそうになる。
風が強くなってきたのか、窓がガタガタと鳴っていた。
長椅子に腰かけたまま、シンシアはぎゅっと手を握り締めた。
見るからに顔色の悪いシンシアを見兼ねたレイチェルがとなりに座り、そっと背中を撫でてくれた。
「大丈夫だよ、シンシア。リュファス様は強いから、必ず帰ってくる」
「……はい」
「リュファス様も、シンシアには笑ってて欲しいと思うよ。シンシアの笑顔を見てると、わたしたちまで元気になるんだから」
「そう、ですか?」
「そうよ」
レイチェルと逆の位置に、ナンシーが座ってくる。シンシアの手を握り、意志の強い目で見つめてきた。
が、すぐにいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「それにシンシア、リュファス様はこれから何回も魔物討伐に出ることがあるわよ? 慣れておかないとダメじゃない?」
「う……た、確かに……」
「もーナンシーはそういういじわる言わない!」
「何よ、あたしはちょっと、場を明るくしようと思っただけよ」
「やり方が横暴だね⁉︎」
その後もぎゃあぎゃあ言い合う二人を見て、シンシアは笑ってしまった。瞬間、二人がばっとシンシアを見る。
「お、笑ったね!」
「そうそう。シンシアはそうじゃなくっちゃ」
「……はい、ありがとうございます。もう大丈夫です」
そう。シンシアの長所は、底抜けに明るいところと悲観的にならないところだ。こんなふうにうじうじしてても仕方がない。それよりも、リュファスが帰ってきてからのことを考えるほうが良いだろう。
「リュファス様が戻られたら、何をするのでしょう?」
「あー多分一度着替えてから騎士団のほうに行って、また魔物が出たところに戻ると思う。瘴気を払わないといけないし。もしかしたら数日帰ってこないかも」
「じゃあ洋服とか揃えたカバンを置いておいたほうがいいですかね……」
「そうね」
「……ちょっとくらい外に出ても問題ないでしょうか?」
「大丈夫じゃないかしら。お花摘み行くついでってことにしておきましょう。……というわけでシンシア、行ってらっしゃい。あたしはキッチン借りて軽食作ってくるから!」
「はい、分かりました!」
ナンシーの言葉を受け、シンシアは客間から飛び出した。
駆け足になりながらリュファスが使っている部屋に入り、着替え一式をカバンに入れた。
(分かりやすい場所……テーブルとかがいいでしょうか? 書き置きがしてあったら、なおのこと分かりやすいですよね)
そこでシンシアは、昼の状態のまま片付けられていないティーセットとケーキを見てしまった。
「……っ!」
不意打ちを食らったせいかぽろりと涙がこぼれたので、慌ててポケットにあるハンカチを取り出そうとする。
しかし指先に固い何かが当たり、シンシアは目を見開いた。
(あ……そうです。この小瓶……ピアス!)
指先に当たったのは、リュファスからもらった魔力を液体化した小瓶だった。これがあれば、魔力なしのシンシアにもリュファスと通信することができる。
カバンを長椅子に落としたシンシアは、震える手で小瓶を持った。指先にひとしずく垂らして、ピアスに触れる。
(お願い、届いて……届きますように……!)
耳たぶで輝くピアスが、ほのかに熱を持った気がした。
ぎゅっと目を瞑る。
「リュファス様……私、待ってますから」
だから、またお茶会しましょうね。
かすれた声で呟いたが、いつものような反応はなかった。
気持ちがまた落ち込みそうになるのを振り払うように、シンシアはリュファスが書類整理などで使っていた執務机から紙とペンを拝借すると、書き置きを残す。
その後、軽食を入れた箱を持ったナンシーが部屋にやってきた。それをカバンに詰め、シンシアたちは客間に戻る。
(どうか、どうか……無事に戻ってきますように)
――それから数時間経ち、暗がりの空が明るくなった。空が薄いスミレ色を帯びている。
そんな中、騎士団は誰一人失うことなく、無事に戻ってきたのだった。
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