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 正餐会当日。

 その日のジルベール邸は、朝からピリピリした空気を漂わせていた。


 メイドたちはいつも以上に気を使って掃除をこなしたし、庭師もいつも以上に手入れに力を入れた。

 窓もピカピカ、ついでに言うなら、使用人たちが使うキッチンや裏方の空間もピカピカだ。来賓客の目に触れないところもしっかり磨き上げているのは、それだけ気合が入っているということだろう。裏方役の使用人たちも、心は同じなのだ。


 それはメイド長と執事長も同じだったらしく、チェックもいつも以上に厳しかった。やり直しを命じられた場所も数か所あった。

 しかし誰一人として愚痴を言ったりしなかったことからも、覚悟の違いが窺える。


 シンシアたち給仕係も、この日のために服を新調してもらった。

 普段のメイド服ではなく、侍女などが着るような、華やかではないが地味ではない濃紺のドレスだ。首元には臙脂色のリボン、髪には純白のリボンを揃いでつける。


 リュファスの瞳と髪の色を持つものを付けることで、自分たちはリュファスの使用人だということを暗に告げるためなのだとか。

 執事たちも白いスカーフと赤いカメオをつけ、準備万端だ。


 日が暮れればジルベール邸はただの公爵邸ではなく――戦場となる。


 ピカピカに磨き上げられた床と新品の絨毯を敷いた玄関で、給仕係の者たちはピシッと整列していた。歴戦の戦士のような風格だ。


 かくいうシンシアも、背筋をしゃんと伸ばして来客を待つ。

 一ヶ月に渡るマチルダの教育は、シンシアに自信を与えてくれた。


(大丈夫です。落ち着いてやれば、問題ありません)


 そう自分に言い聞かせていると、リュファスがやってくる。彼は髪を撫でつけ、ぴしりと決めていた。


 服装もいつも以上にきっちりしており、普段着ている騎士服よりも一段格が高い騎士礼装を身につけている。

 マントにもジルベール家の紋章である天秤と盾、盾の内側に幾何学模様がサテン系の赤い糸で描かれており、動くたびに浮き上がって見える。


 幾何学模様は精霊語という、魔術師がよく用いる言語だ。リュファスのマントには「我、いかなるものにも臆せず。我、いかなることにもたゆまん」という意味の精霊語が刻まれているのだとか。

 それを聞いたとき、シンシアはリュファスの並々ならぬ覚悟を垣間見た気がした。

 そんな覚悟とともに、リュファスは凛然と佇んでいる。


「皆、今日はよろしく頼む」

『はい!』


 リュファスのよく通る声が響いた。たったそれだけなのに、使用人たちの空気が一気に変わったのが分かった。

 シンシア自身も気持ちが明るくなり、緊張がほぐれる。

 そんなときだ。来客を告げるベルが鳴った。


 フットマンがドアを開けると同時に、使用人たちが腰を折った。本日最初の来客に、リュファスが対応する声が聞こえる。


「これはこれは。グラディウス卿ではないか。一番乗りがあなたとは思ってもみなかった」


(え……)


 顔を上げると同時にそちらを見たシンシアは、一人息を飲んだ。


 そこには、黒髪の貴人がいた。シンシアは一瞬、おとぎ話の闇の精霊が現れたのかと思った。


 グラディウス公爵――ギルベルトは、それほどまでに美しかったのだ。


 漆黒の瞳は鋭く、見られたら体が動かなくなってしまうくらい恐ろしかった。なのに見つめてしまうというのだから、美形の魔力はすごい。

 長く艶やかな黒髪は無造作に結ばれ、しかしそれがとてもよく似合っている。リュファスとはまた違った種類の美人だ。

 黒の礼服に黒のマントという、全身黒づくめの姿をした貴人は、しっとりと微笑んだ。


「ジルベール卿が開いた正餐会ですからね。これくらいは当然でしょう」


 シンシアは、内心ひえっと悲鳴をあげた。


(色気が、色気がすごいです……)


 どこから溢れてくるのか。蜂蜜のように甘い色気がギルベルトから滴り落ちている気がする。

 こんな甘やかな顔をした男性に微笑まれたら、美形慣れしていない女性はイチコロだ。


(ナンシーさんとレティシアさんが『グラディウス公爵閣下には気をつけなさい』ってごり押ししてきた理由が、ようやく分かりました)


 マチルダお手製冊子に、赤文字で危険人物扱いされていただけある。

 これは間違いなく、歩く災害だ。闇の精霊王ではなく、インキュバスの類いかもしれない。シンシアが一番苦手とするタイプだった。この一瞬のやりとりで、シンシアは勢い良く心の距離を空けた。

 しかし昔から笑って誤魔化すことに慣れていたシンシアはそれでも、笑顔をキープすることができた。


 シンシアにそう思われていることに気づかず、ギルベルトは執事にコートを手渡す。

 そしてシンシアを見て、目を見開いた。


「……見ない顔をした使用人がいますね? ジルベール卿が使用人を増やすなど、珍しい」


 ギルベルトはそう言うと、ごくごく自然な動作でシンシアの手を取った。

 リュファスの眉が一瞬ぴくりと震える。どうやら、心配してくれているようだ。


(大丈夫です、リュファス様。心の距離はものすごく離れていますから)


 シンシアはリュファスに目配せした。


「レディ、お名前は?」

「グラディウス公爵閣下、大変申し訳ありません。私は使用人ですので、名乗る名を持ち合わせておりません」

「……なるほど、確かにそうですね。随分と仕事熱心な使用人なようで」


(だって、メイド長からいただいた冊子に書いてありましたから)


 通常、使用人が名前を名乗るような場面はないのだ。その相手が貴族階級であっても、その場での立場が使用人なら名乗る必要はない。だから聞かれたときはさらりと流すのがいいと書いてあった。

 今回はそれを実践しただけ。その証拠に、マチルダから「よくやりました!」というような念を感じた。


 しかし、ギルベルトはなぜか手を放してくれない。

 シンシアは微笑みながら、心の中で汗をダラダラ流していた。

 正餐会が始まってすらいないのに、いきなりのピンチだ。しかも、かなり危険度が高い。

 なのに、ギルベルトはどこか楽しそうにシンシアの手を弄ぶのだ。


「ジルベール卿、素晴らしい使用人を入れましたね」

「……ありがとう、グラディウス卿」

「ええ、本当に。きっぱりとした物言いに惚れ惚れしました。我が邸宅に引き入れたいくらいです。このような場所でなければ、口説き倒していたところです」

「……お戯れを」


 会話の内容が不吉すぎて、背筋に震えが走った。リュファスがやんわりとした口調でたしなめているが、どこ吹く風だ。いじめだろうか。弱い者いじめはよくない。


(とっとと手を放して、応接間に行ってください!)


 シンシアがそう心の底から叫んだときだ。

 新たな客が、呼び鈴を鳴らした。


 それは凍り付いていたジルベール邸の玄関に、わずかばかり動きをもたらす。

 ありがとうございます! とシンシアは見ず知らずの客に対して胸の内で礼を述べた。

 さすがのギルベルトも、他の客がいる前で使用人に絡むことはないだろう。なんとか場を切り抜けられそうだ。


「ごきげんよう、ジルベール卿。本日はお招きいただきありがとうございますわ。……あらあら。相も変わらず節操なしですこと。他人のタウンハウスなのですから、女を弄ぶのは控えたらいかが? 見苦しくてよ」


(…………あ、れ?)


 そう思っていたのだが、そうはいかないのが現実なようだ。

 シンシアは入り口を見つめる。


 そこには、プラチナブロンドの髪をした美女――エリスフィーナ・マリカ・シヴァンヌ・ランタール=エイリーチアがいた。

 エリスフィーナの来訪に、ギルベルトは満面の笑みで対応する。


「ごきげんよう、王妃殿下。このレディは新人なのですが、なかなか見どころのある人なのですよ。ですのでついつい」


 ついついとか言いつつ、シンシアの手を先ほどより強く握るのはどうなのだろうか。悪いと思っている人が取る行動ではないのだが。

 そう感じたのはシンシアだけではなかったようで、エリスフィーナの目に怒りのような感情がにじむ。


「……そうでしたか。素敵なご趣味ですこと」


 ジルベール邸の玄関に、季節外れのブリザードが吹き荒れた。


(……冒頭から、一触即発なようで)


 チリチリとひりつくような空気を感じながら、シンシアは遠い目をした。

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