「あ、足が、痛くて、死にそうです……」

「メイド長、張り切りすぎ……」

「後半から、ただの憂さ晴らしじゃなかったかな、あれ……」


 シンシア、ナンシー、レイチェルの順で今日の特訓の感想を言う。その周りにはもわもわとした湯気が立ちのぼっていた。


 時刻は午後九時。三人は揃って大浴場の湯に浸かっていた。

 マチルダの特訓という名の再教育の時間が長引いてしまったため、他の使用人たちは夕食も入浴も終えてしまっている。そのため、三人はゆっくりと湯に浸かっているのだった。


(それにしても……メイド長の教育的指導、恐ろしかったです……)


 そのときの光景を思い出し、シンシアは震えた。ぶるりと、湯船に浸かっているのに寒気がしてくる。

 シンシアは腕をさすりながら、肩まで浸かれるようお湯の中に沈んだ。


 正直、母親からダンスや所作、テーブルマナーなどを教わったときよりも厳しかったかもしれない。

 同じ体勢をずっとキープし続けたせいか、体中が痛かった。もらった冊子を開く元気すらない。


 このしごきの後にあの辞書のような冊子を覚えないといけないのか、と愕然としているとナンシーが大きく伸びをした。


「毎日入浴できるって、ほんと幸せ……」

「本当に幸せです。旦那様は本当に寛大ですね……」


 シンシアはこくこく頷く。


「ええ。使用人の身なりがみすぼらしかったら、主人が使用人を大切にしてないってことでしょ? それは貴族的に恥じるべきことなんですって。リュファス様が綺麗好きなのもあるでしょうけど」


 ナンシーの言葉を聞いて、シンシアは伸ばしていた足をばたつかせる。


(お風呂に毎日入れるなんて、最高です……)


 領地にいた頃は、母親の意向もあり毎日代わる代わる湯を沸かしていたが、王都にきてからは公共浴場しかなかったのでのびのび入れなかったのだ。

 それに比べ、ジルベール家の大浴場は男女分けられているし、三人で入ってものんびりできるくらい広い。


 一方のレイチェルは、ナンシーの発言に唇を尖らせた。


「もーナンシーはそんなこと言って。リュファス様がお優しいから、使用人に寛大なんでしょー?」

「そりゃあそうだけどね?」

「……『リュファス様以外の主人に使えるのなんて嫌!』って話、嘘だったのかなぁ?」

「ちょっ、レイチェル! そんな昔のこと掘り出さないでよ!」

「ナンシーが素直じゃないからでしょー?」


 お湯をバシャバシャかけ合いながら言い合いを続ける二人を見て、シンシアはくすくす笑った。


「お二人は、仲が良いのですね」


 瞬間、二人がぴたりと動きを止めた。


「……違うし。お城で侍女として働いていたからだし。ただの腐れ縁だし」

「そうそう。立場が貴族令嬢だから、自然と同じようなところに配属されてただけだよ。だから、仲がいいわけじゃないわ」


(息、ぴったりなんですけどね)


 そこを指摘したらまた怒られそうだったので、黙っておく。


 そのときふと、レイチェルと目が合った。

 レイチェルは目を見開くと、照れたように笑う。


「えへへ、ごめんねシンシア。そういえば自己紹介してなかった。わたしはレイチェル・アンジーニ。アンジーニ子爵家の三女です。今年で十九歳なんだ」

「こちらこそ、失礼しました。シンシア・オルコットと言います。オルコット伯爵家の長女です。歳は十九、同い年ですね! よろしくお願いします」


 改めて自己紹介をすると、なんだか気恥ずかしい気持ちになった。


 なんせレイチェルも美しい。ナンシーが凛とした美女だと言うなら、レイチェルはふわふわと柔らかい美人という感じだった。

 オレンジのように丸い瞳は垂れていて、笑うとよりふんわりする。体系も女性らしく豊満で、シンシアは自分の胸元を見つめた。


(…………差が激しいですね)


 実家から届いた芋ばかり食べていたシンシアの体は、かなり細い。仕方ないことだが、なんだか複雑だ。

 すると、ナンシーがシンシアのことを後ろから抱き締めてくる。


「ひえっ⁉︎」

「ねえ、シンシア……あなた、細すぎじゃない?」

「た、食べてないわけではないのですが……」


 まさか、ケーキ代のために食費を切り詰めていました、とは言えない。

 もごもごと言いよどんでいると、レイチェルも眉を吊り上げた。


「これは痩せすぎだね、ナンシー」

「……シンシア! お風呂終わったら、あたしの部屋でお菓子食べるわよ!」

「え、ええ⁉︎ 夕食はお腹いっぱい食べましたよ⁉︎」

「ダメ。それじゃあダメ。太らないと、見てるこっちが寂しくなるから」

「……本音は、共犯が欲しいだけだけどねー」

「こらレイチェル! バラさない!」


 どうやらナンシーとレイチェルは、寝る前にお菓子を食べるという禁断の行動を共にする仲間が欲しいらしい。それを聞き、シンシアは楽しくなった。


(メイド長の教育は厳しくて大変ですけど……楽しい職場で良かったです)


 屋敷に入るまでは不安しかなかったが、どうやら杞憂だったようだ。こんな職場なら、マチルダのしごきつらいことがあっても耐えられそうな気がする。

 ナンシーに抱き締められながら、シンシアはふふっと笑った。


「私、このお屋敷で働けて良かったです。……ここでなら、夢を早く実現できそうですし」

「……夢? 前言ってたやつ? 自分のところで作った小麦を王家御用達の菓子職人に使ってもらって、それを食べるってやつ?」

「あ、それは一番大事な目標なので。私欲張りなので、夢は何個かあるんです」


 シンシアは、自分が夢見がちな女だということを理解している。しかし現実を見ないということではないので、夢には優先順位を付けていた。


「まず、家を立て直すこと。家を立て直すことができたら、今より貴族令嬢らしい暮らしを送ること。それがどうにかできた頃には、きっと王家御用達の菓子職人に目を付けてもらえると思うので!」


 夢は叶えるものだ。努力は、その夢を実現させるために必要な過程である。

 シンシアは、自身の強みをどんなに絶望的な状況になっても諦めず前向きに夢を追い続けるところだと思っている。


 今までいろいろな体験をしてきたため、ちょっとやそっとの困難じゃ立ち直れる自信もついた。両親、特に父親譲りの長所を、彼女は意外と気に入っている。


(さすがに、家が没落したら落ち込みますけどね!)


 そんなことを思っていると。


「……あああー! ほんっとうに、もう‼ シンシア可愛すぎるー‼」

「ぐえっ⁉」


 ものすごい勢いで抱きつぶされた。

 カエルが押しつぶされたときに上げるような、変な声が出てしまう。

 それだけでもつらいのに、レイチェルまで抱き着いてきたのはどういうことなのだろうか。


「ほんと、シンシアかーわいいー」

「うぐっ……ど、どこがですかっ!」

「いや、努力家で真面目で所作はどこに出しても恥ずかしくないくらいちゃんとしてるのに、目標が斜め上に設定されているところとか?」

「そうそう。可愛いわよね。後、ふわふわ優しい雰囲気してるのに、やることはちゃんとやるし、細かいところによく気づくわよね。言い方も全然鼻につかないし、気づいたら場の空気に馴染んでるのよねえ……そういうの、すごく可愛いし面白いと思う」

「お、面白い⁉ なんかおかしくないですか、その評価!」


 褒められているのか貶されているのか、まったく分からない。なのにナンシーとレイチェルは、楽しそうに笑っているのだ。

 わけが分からず、シンシアはむくれた。だがすぐに、二人につられて笑い始める。風呂場には、女性三人の楽しげな声が響いていた。


 ――それからシンシアは、ナンシーの部屋に招かれお茶をすることになる。


 お風呂上がりに食べたクッキーは、甘くて優しい味がした。

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