シンシアがメイドとして働き始めてから、五日が経った。その日も、ナンシーと一緒に洗濯をする日々だ。


 変わったところと言えば、ナンシーが新しいシーツを掛け直している間に、シンシアが汚れがひどいものを選別するところだろうか。


 しかしこれにより、干している際に気づいて洗い直すなんていう手間がなくなった。

 レモンと、ケーキを膨らませるために必要なふくらし粉を混ぜたものを汚れた箇所につければ、一緒に洗っても汚れが落ちるのだ。

 初めてそれをやって見せたとき、ナンシーがとても感激していたことを覚えている。


 ナンシーからの信用も得て、他の使用人たちとも仲良くなっていた。

 魔術でなんでもやる彼らは細かなところに気づきにくいようで、シンシアが改善案をいくつか出したのがきっかけだ。


 たとえば、窓掃除のときなどは、一度水拭きした後乾拭きをするとピカピカになることを教え、本当に大事な行事の前は乾拭きの代わりに新聞紙で拭くといいと教えた。シンシアが知っていた知識は使用人たちに好評で、距離が近くなったのもそれからだ。

 シンシアも、使用人たちに色々と教わったし、一緒に経験した。


 執事長とメイド長が絶対にこない、使用人たちがよく使うサボり場を案内してもらったり、裏門を使わないで外に出る抜け道を教えてもらったりもした。

 夜こっそり窓から出て、屋根にのぼり星を眺めたこともある。体が宙に浮かぶという経験をしたのは、そのときが初めてだった。


 マチルダは未だにシンシアを快く思っていないようだったが、シンシアはそれ以上に楽しかった。毎日がとても刺激的で、キラキラしていたのだ。


 持ち前の適応能力を駆使し、シンシアはジルベール家に馴染み始めていた。









 ――変化が起きたのは、リュファスの休日の前日だ。


 朝普段通り玄関に並んでいたシンシアは、リュファスが立ち止まりメイド長と執事長に指示を出すのを聞いた。


「マチルダ、ロラン。正餐会(せいさんかい)の日付が決まった。来月だ。今回も準備、よろしく頼む」

「承りました、リュファス様」


 リュファスは言いたいことを言い終えると、再び靴音を鳴らしながら進む。


『行ってらっしゃいませ』


 使用人たちの声が重なり、玄関に響いた。

 玄関のドアが閉まるまで腰を折っていた使用人たちは、フットマンがドアを閉めると同時に体勢を戻す。そしてざわざわと話を始めた。


 普段ならすぐ仕事に戻るのにそれがないということは、何かがおかしいのだとシンシアは悟る。


「うわぁーそっかー。もうそんな時期かぁ……」


 それに混じって、ナンシーも嫌そうに顔を歪める。声音からしても、歓迎していないいうことがよく分かった。しかしシンシアにはいまいちぴんとこない。


「そんな時期とは、どういう意味でしょうか、ナンシーさん」

「ああ、正餐会よ。他の貴族たちをディナーに招待する会、って言ったら分かりやすいかな。リュファス様も開くのは嫌でしょうけど、あたしたち使用人にとっても最悪の行事なのよね、正餐会って……」


 両腕をさすりながらぶるっと震えるナンシーを見て、シンシアは不安になった。


「そ、そんなに大変なのですか……?」

「大変というか……ものすごく胃が痛くなるわ」

「……胃? それは、その、ストレスからくるものでしょうか? それとも、食べ過ぎとかそういう……?」

「ストレスのほう。あーもうほんと、この会のときだけは裏方に徹していたい……」


 ナンシーが「お願いします神様! どうか、給仕役にだけは選ばれませんように……!」と手を合わせて神頼みをするくらいなのだから、相当なものだろう。正餐会がどんなものか分からないシンシアでも震えたくなる。

 すると、マチルダがパンパンッ! と手を叩いた。


「皆さん、静かに! 正餐会の給仕役は既に決めてあります!」


 一つ間が空く。

 ナンシーがごくりと喉を鳴らすのを聞き、シンシアの緊張も最高潮になった。

 マチルダの口元が妙にゆっくり動いて見える。


「メイドからは、わたし、ナンシー、レイチェル、そしてシンシア! 以上の四名! 今呼んだ者には仕事の後に個人レッスンをしますから、昼食後使用人屋敷のホールに来なさい!」


(……どうやら、神様はいらっしゃらなかったようです)


 ナンシーががっくりとうなだれているのを見ながら、シンシアはそう思ったのだった。





 正餐会というのは、貴族が自身の屋敷で招待客を読んで行うディナーのことだ。


 主催はその屋敷の主人で、男女の人数がちょうど同じになるように招待客を選ばなければいけないらしい。

 正餐会に呼ばれるということはとても栄誉あることで、相手が自分を同列に見てくれているということになるという。


 そんな会を、ジルベール公爵邸の使用人たちがなぜここまで恐れるのか。

 それは、リュファスの立場にあった。


「リュファス様は王弟という立場でしょう? しかも、国王陛下よりも使える魔術が多いの。全魔術が使えるから、魔術師からは神様みたいな扱いを受けてて……だからね、面倒臭いやつらに再三絡まれていて……そのとばっちりが、あたしたち使用人にまで来てるっていうわけ」

「な、なるほど……恐ろしいですね」

「まったく、リュファス様にはその気がないんだから、黙って引っ込んでれば良いのに」


 ナンシーがかなり辛辣な言い方をしているのを聞きながら、シンシアは苦笑した。


 時刻は昼過ぎ。午前の仕事を終え昼食を取ったシンシアとナンシーは、メイド長マチルダの指示通り使用人屋敷のほうへ向かっていた。

 仕事中、シンシアはナンシーから様々なことを聞いた。


 現在、貴族には派閥が存在するらしい。

 現国王の意思を尊重し、魔術を徐々に広めようとする『推進派』と、魔術を貴族の間だけで独占し、特別なものとして扱う『独占派』、そしてそのどちらにも属さない『中立派』だ。オルコット家はそんな論争があることさえ知らないので中立派と言って良いのか分からないが、一応は中立派だろう。リュファスも中立派なんだとか。


 独占派の貴族たちは、魔術師としても騎士としても優秀なリュファスをどうにかして引き入れたいらしい。

 王弟という地位も、彼らには魅力的なんだろうとナンシーは吐き捨てるように言っていた。


「だから今回の正餐会は、リュファス様が『自分はどちらの派閥にも入っていませんよ』ということを伝えるために開く意味もあるのよ。そのせいで、推進派、独占派、中立派の人間がバランス良く呼ばれるのだけど……さいっこうにピリピリするのよね、これが……」

「聞いているだけで、私も胃が痛くなってきました……」

「そんなところで給仕なんてするんだから、もうね……一瞬たりとも気が抜けないのよ……あたしたちのほうを懐柔して、リュファス様に近づこうとする貴族もいるし。だから毎回貴族階級の人が、給仕役に選ばれるの……そういう腹の探り合いに慣れてるから……」

「ひえ……私、社交界には慣れてませんよ……? 慣れてるのは、酔っ払いとか手を出そうとしてくる男の人への対処法くらいですよ……」

「逆になぜそっちはできるの」

「酒場で働いていたことがあるので、女将さんから教わりました」

「……なるほど。理解したわ」


 どちらにせよ、地獄のような空間だ。

 それを毎年一回は開いているというのだから、リュファスの努力に涙が出そうになる。


(そりゃあ美味しいお菓子に逃げたくもなりますよ……ささやかな現実逃避ですよ……)


 ケーキを買うことになっているのは明日だ。美味しいケーキを出しているところを見繕おう、とシンシアは決心したのだった。

 が、それよりも先に苦行が待ち受けている。


 ホールに足を踏み入れると、マチルダともう一人、メイドがいた。

 プラチナブロンドの髪をした、おっとりした美人だ。彼女がレイチェルだろう。

 仁王立ちをしたマチルダの存在感に圧倒され、シンシアは内心だらだらと汗をかいた。


(怖い、メイド長怖いです……!)


 母親仕込みの社交辞令用の微笑みを浮かべているが、口元が引きつりそうだ。

 マチルダは真顔でシンシアを凝視した後、一度頷く。


「姿勢、笑み、そして態度。さすが伯爵令嬢ですね、合格です。シンシアもやはり、給仕役にしましょう」

「……もしかして、この五日間試されておりましたか?」

「ええ、そうですが、それがどうかしましたか? リュファス様のためならば、新人であろうと使えるのであれば使います。あなたを初めて見たときから、品の良さは評価しておりましたから」


(褒められているのでしょうか、これは……)


 それはともかく、メイド長は本当に旦那様のことが大切なんだなぁ、とシンシアはしみじみと思う。


 そんなふうに気を抜いていたのがいけなかったのだろうか。マチルダはシンシアに分厚い冊子を渡してきた。ナンシーとレイチェルにも同じものが渡される。

 辞典と同じくらいの厚みの冊子を見つめながら、シンシアは微笑んだ。困ったときほど笑みが深くなるのが、シンシアの癖だった。


「メイド長、これは」

「招待客の個人情報と、もしものときの対処法などをまとめた冊子です。一ヶ月後にある正餐会までに、必ず覚えること」


 さあ。レッスン、始めましょうか?


 マチルダの鬼気迫る形相を眺めながら、シンシアは思う。


(私たち、生きられるのでしょうか……)


 ――その予想違わず。

 シンシアたちは時間の許す限り、マチルダにこってり絞られたのだった。

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