(…………………………はい?)


 リュファスの口からこぼれたまさかの単語に、シンシアの思考が停止した。カップを置いておいてよかったと本気で思う。


(えっと……あの婚約で間違いないのですよね……ジルベール公爵閣下が私に婚約を申し込む……? そんな、まさか。というより、今の長考の間に、一体何があったのでしょう……?)


 飛躍しすぎてわけが分からない。

 玉の輿を狙っている令嬢ならともかく、シンシアの理性はそこまで狂っていなかった。


「その……閣下が婚約を申し込まれた理由をお聞かせ願えませんか? あまりにも突然でしたので、頭が追いつかないと言いますか……オルコット家は先ほども言いました通り、貧乏ですし。閣下に得のある婚約ではないと思うのです」


 自分で言っておきながら、なんだか悲しくなってきた。しかしシンシアとしては、その辺りを確認しないわけにはいかない。

 リュファスは、呼び名通りの鉄面皮を貼り付け淡々と告げてきた。


「もしわたしと婚約を交わせば、オルコット家の借金をすべて返済することを約束する。君からしてみたら、得しかない契約だと思うが」

「いえ、ですから私は、閣下に得がないと言っているのです。それに私の境遇に同情していただけたのであればなおさら、閣下の申し入れを受けられません。年月はかかりますが、返済できるだけの目処が立っているのです。どうしようもない状態ならともかく、身内の恥を他の方にそそいでもらうわけにはいきません」


 シンシアはきっぱり断った。

 そこまで同情してもらうのは申し訳ないし、リュファスを利用しているようで悪い。それに、契約は対等であるほうがいいのだ。


 するとリュファスの表情に初めて、焦りのようなものが浮かんだ。


「なら……この屋敷でメイドとして働くのはどうだ? 今君がもらっている給料の二倍……いや、三倍は出す!」

「え……ええっ⁉︎」


 すごい譲歩をされた。まさかの流れに頭がぐるぐるする。


「この屋敷は広いが使用人が少ないんだ。わたしには君を雇っても問題ないだけの貯蓄もある。だから、その……」

「………………あの、閣下。本当の理由を教えてくださいませんか?」


 リュファスが取り乱すのを見て、シンシアは自身の頭が冷静になるのを感じた。

 落ち着いた声で問いかければ、リュファスがぐっと喉を詰まらせる。

 それから数分、間が空いた。シンシアは、リュファスが話してくれるのをじっと待つ。


「…………自分勝手な主張なのだが、構わないか?」


 それから少しして、リュファスはそんな前置きをした。シンシアはこくりと頷く。


 真面目に話を聞こうとするシンシアの姿勢に、リュファスは観念したようだ。話にくそうに目を逸らしながらも、ぽつりぽつりと本音を打ち明けてくれた。


「私は、私が甘いものが好きなことを、できれば内緒にしておきたいんだ」


 ――曰く。


 リュファスが二十歳の頃、彼が酒が好きだという話が出回ってしまったらしい。

 その話はあっという間に貴族社会に広まり、プレゼントとしていくつもの酒をもらったのだとか。その酒の数は三桁を優に超え、今も公爵家の保管庫に眠っていると、リュファスはげんなりした様子で話してくれた。


「もともとあった保管庫だけではどうにもならず……増築したんだ。酒は寝かせば寝かすほど美味しくなるが……菓子はな」

「ああ、なるほど……余れば腐ってしまいますし、適量食べるから美味しいですものね……そんなにいただいたら、ケーキが嫌いになってしまいそうです」


 リュファスはこくりと頷いた。


「それに、わたしがあそこの菓子屋のケーキを買っていたという噂が出れば、皆がその店に殺到するだろう」

「王弟殿下御用達のお店なんて知られたら、そうなってしまうと思います」

「それは嫌なんだ。わたしは、静かに自分の趣味を楽しみたい。だから、噂が出るくらいなら金を払ってでも止めたい。君はきっと話さないと思うが、やはり金銭面での契約があったほうがわたしが安心できるんだ。わたしが君が借金を返済するまで雇う代わりに、君はわたしの秘密を言わない。それでどうだろうか」


(ああ、なんと言いますか……大変不憫な方ですね)


 リュファスの自分本位な本音を聞いたシンシアだったが、思わずリュファスに同情してしまった。

 金銭でのやり取りがないと不安だなんて、人間不信ではないだろうか。不憫極まりない。王弟という立場はとても面倒臭いのだな、としみじみする。


(ですが、今回の契約はかなりはっきりしていて分かりやすいですね)


 シンシアにとっては大したことがない秘密でも、リュファスにとっては一大事。それを断るのは、リュファスを裏切ることと同じだ。

 一通りの説明をし終えたリュファスは、口元を手で押さえた。


「それに、その、だな……」

「はい。ジルベール公爵閣下さえよければ、メイドとして雇っていただければと思います」

「いや、それは嬉しいのだが、それだけではなく」

「はい……?」

「…………先ほど、君とケーキに関する話をして。とても、楽しかったんだ」


 かすれるような声で呟かれた言葉に、シンシアは驚く。


 リュファスを凝視すれば、頬がほんのり赤くなっているのが見て取れた。

 釣られて、シンシアの頬も赤くなる。


「え、あ、それ、は……」

「……下心ばかりで申し訳ないが、ケーキを食べながら、君ともっと話したいと思ったのだ。屋敷の人間にも、わたしが菓子が好きなことは言っていなくてね。だから、君をメイドとして雇えば、一緒に話せるのではないかと……婚約が一番手っ取り早いと思い、突飛なことを言ってしまった。混乱させたならすまない」

「な、なるほど。そういう理由が……」


 リュファスの本音を聞いてようやく、シンシアは求婚された理由を悟る。

 確かに、異性の貴族同士が会うにはそれ相応の口実が必要だ。幼馴染という立場ならいざ知らず、シンシアとリュファスは初対面。婚約という扱いをしておいたほうが、気軽に会えるだろう。


 婚約をすれば、リュファスの秘密を守ると同時に今日のようなケーキ談話ができることになる。確かにそれは魅力的だ。代替え案のほうが、シンシアの心臓的に良いのだが。

 そこで、シンシアははたと気づく。


「それはつまり……私、ここで働かせてもらえるだけでなく、ケーキも食べさせていただけるのですかっ⁉︎」

「ああ。もちろんケーキ代に関しては別途で払う。……どうだ? 悪い条件ではないと思うのだが……」


 悪い条件どころか、いい点が多すぎて困るくらいだ。

 現在もらっている給料の三倍ももらえたら、五年かからず借金を返済することもできる。そうすればギリギリだが、嫁ぎ遅れになる前に見合いをすることができそうだ。

 シンシアは二つ返事で了承する。


「閣下さえ良ければ、是非このお屋敷で働かせてください」

「ああ、分かった。辞める目処が立った頃に、また連絡して欲しい」


 言葉とともに渡されたのは、ルビーがはめ込まれたピアスだった。しかも片耳だけだ。


「これはもしかして、もう一対のピアスを持っている人と連絡ができる魔導具ですか?」

「ああ、そうだ」


(こんな高価なものをぽんっと渡されるとは思ってもみませんでした……)


 無くしてしまいそうなほど小さな魔導具を両手で抱えながら、シンシアは震える。

 ビクビクしていたシンシアに、リュファスはさらにもう一つものを渡した。それは、無色透明な液体が入った小さな小瓶だ。


「こっちが魔力が溶け出した液体だから、指先に軽くつけてピアスの石に触れてくれ。そうすれば、魔力なしでも起動することができる」

「あ、ありがとうございます……大事に使わせていただきます」


 シンシアに魔力がないことを、どうやらリュファスに見破られていたらしい。優れた魔術師なら魔力を感知できるとのことなので、ある意味当たり前かもしれない。


 ピアスと液体が入った小瓶をありがたく受け取りながら、シンシアはぺこりと頭を下げる。


 ――それから一週間後。シンシアはジルベール公爵家の屋敷で、メイドとして働くことになった。

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