2
そうして連れて行かれたのは、貴族たちの居住区ミスリールだ。
隣家との隙間がほとんどない平民たちの居住区とは違い、石を積み上げて作られた外壁で区切られている屋敷が多い。初めて入った場所だったが、そこにやってきたこと自体は予想通りだった。
しかし男性が入ったのは、予想していない大きな屋敷だった。
シンシアたちが入ったのは裏門からだが、盾に天秤という特徴的な紋章が描かれた旗が表門ではためいていたのだ。
いくら田舎者の貧乏貴族令嬢だって、その紋章を掲げている貴族くらいは知っている。
(ここ、ジルベール公爵閣下の邸宅です……!)
ジルベール公爵というのは、王弟が臣下に下った際にもらった爵位だ。つまりここにいる貴族は、ただ一人。
本来なら会うことなど滅多にない、高嶺の花だ。
(ど、どうしましょう……大変なところに来てしまいました……!)
屋敷に足を踏み入れたシンシアは浮かれた。夢にまで見た『貴族の住む邸宅らしい』内装が、目の前に広がっていたからだ。
廊下の端から端までふかふかした絨毯が敷かれているためか足音一つ響かないし、どこもかしこも塵一つ落ちていないくらいぴかぴかだ。
あまりの衝撃に歩みが遅くなってしまったが、彼がぐいぐいと手を引いてくる。絨毯に足を取られつんのめりそうになりながら、シンシアは廊下を進んだ。
押し込まれるようにして入れられたのは、リュファスの私室だろうか。広々とした部屋に、品のあるシックなデザインの家具が並び、綺麗に整えられていた。
「ここまで帰ってきたなら、もういいだろう」
男性は、そう言うと帽子を取る。
すると髪の色が黒から銀へ。瞳の色が紫から赤へと変わっていった。魔術で髪と目の色を変えていたのだろう、とシンシアは予測する。
現れた美貌の人を目の当たりにし、シンシアは呆然とする。その姿を見れば、さすがの彼女も相手の存在を思い出した。
リュファス・シン・ジルベール=アヴァティア。
白雪のように美しい白銀の髪と、ガーネットの瞳が印象的な美男子だ。
王族の血を引いているため、真紅色の瞳をしている。歳は今年で二十五歳。
公爵という立場でありながら魔術騎士団第一部隊の隊長としてその名を馳せているため、騎士公爵とも呼ばれていた。
ちなみに、他にも呼び名はある。『笑わない貴公子』とか『氷華の騎士』とか『女泣かせの鉄面皮』などだ。
これらの名前から分かる通り、リュファスはまったく女性を寄せ付けない、冷ややかな性格をしている。
地位も年齢も結婚するには問題ないのに、浮いた話一つないのはそのためだった。
騎士団にいても、表情がまったく動かないらしい。気づいたらいなくなっていることもしばしばあるとか。
そのミステリアスな王弟に惹かれる令嬢が後を絶たないという話を、シンシアは以前聞いたことがあった。貴族社会になじみのないシンシアですら知っているのだから、相当だ。
帽子を外したリュファスは、人形のように生気を感じさせない表情をしていた。
「座りなさい、オルコット嬢」
「はい……」
先ほどよりも声が冷ややかに聞こえ、シンシアは言われた通り長椅子に腰掛ける。
あんなにも浮足立っていた気持ちは嘘のようにしぼみ、愛想笑いしか浮かばなくなる。
(ただでさえ我が家は貧乏なのに……これ以上何が起きたら、そのときは没落ですかね……はは……はははは……)
軽く現実逃避をしていると、リュファスがどこからともなくティーセットを持ってきた。彼は慣れた手つきでお茶の準備を始める。
(……え、え、え? ま、待ちましょう……落ち着くのです私。……いやいやいや。落ち着けますか……! どうしてジルベール公爵閣下が、お茶の準備をしてるのです⁉︎)
シンシアが混乱していると、リュファスは感情の読み取れない真紅の瞳でシンシアを見つめてきた。
「オルコット嬢はどうして、あの場にいたんだ? 今は別に社交界シーズンでもないだろう。領地にいるのが普通では?」
「あ、えっと、その……」
痛いところを突かれたなーと思う。これでも一応シンシアは伯爵令嬢。侍女も連れずにこんな場所に一人でいるわけがないのだ。
「……言えないのか? 何かやましいことでも?」
「そ、そのようなことはありませんが……その……我が家としては、恥になりますので……」
適当に濁してやり過ごそうと思ったが、リュファスにそれは通じないようだ。
(このままだと、無実の罪で牢屋にでも入れられてしまいそうです……)
シンシアは、大きく息を吸い込んだ。
「……その。オルコット家は、貧乏なんです」
シンシアは、家の事情をかいつまんで説明した。
現在オルコット家には、亡き祖父が魔術狂いだったせいで金が祖父の道楽に消え、貧乏だということ。
そんな状態を打開するために、母方の伯爵の借金をしながら実家を立て直しているところだということ。
「そして私がなぜ王都にいるかと言いますと……実家に仕送りをするためなのです」
幸いなことに、シンシアが生まれた頃から始めた事業は軌道に乗ってきたため、借金を返す見通しは立っていた。だがそれだけではどうにもやっていけない程度に、オルコット家は貧乏なのだ。
売れるものは売り尽くし、それでも生活に支障が出る。だが父と母と兄は、事業を進めていく上で重要な役割を担っている。
結果、シンシアが王都で働き、仕送りをするということになった。
だから彼女は今こうして、伯爵令嬢がやらないような仕事をしているのだ。
「私は田舎貴族なので王都のほうが知り合いが少ないですし、いたとしても私が働いている平民区域にはめったなことがないと来ないでしょう。こちらのほうが稼ぎが安定していたので、こちらにやってきたんです……お恥ずかしながら、以上が我が家の現状にございます」
まさかこんな私情を王弟に話すことになろうとは。情けなくて、シンシアは泣きたい気持ちでいっぱいになる。
しかしリュファスは別に馬鹿にするようなことはなく、考えるように顎に手を当てていた。
「……オルコット家は確か、食料関係の事業を展開していたな?」
弱小貴族の事業をそこまで知っているとは思わず、シンシアは面を食らう。
「は、はい。その中でも特に小麦の品種改良に力を入れています。領民の方とは昔から交流がありましたので、皆さんに手伝っていただきどうにか……最近は王都の菓子職人の方にも目をかけていただけて、業績もだいぶ上向きになったのです」
「そうか……素晴らしい努力だな」
リュファスが思わぬ方向に興味を示してくれたことに、シンシアは少なからず驚いた。だがオルコット家や大好きな家族、ひいては領地のことを褒められた気がして、少し嬉しくなる。
「はい。後二、三年もしたら借金を返済することができそうで、安心しています」
「……二、三年……」
「借金を返済した後も、生活が安定するまでは王都で働くので……後五年くらいはいるつもりです。ですのでその……決して悪いことを考えているわけではないのです。それだけは分かっていただきたく」
シンシアが必死の思いで弁明していると、リュファスが首を傾げる。
「いや、別にそれは考えていなかった。ただおかしいな、と思っただけだ」
(良かったです……没落することだけは避けられました……!)
内心踊り狂っていると、リュファスがテーブルを指差す。
「ところでオルコット嬢。君はどれを食べたい?」
「……はい?」
独特のペースに、シンシアは口をあんぐりと開けた。
どうやらリュファスはとてもマイペースな性格をしているらしい。ポットに入った紅茶をカップに注ぎながら、再度聞いてきた。
「君は先ほど、ケーキを落としていただろう。私はこの通り多めに買ってあるから、どれでも一つ食べなさい」
「え……よ、よろしいのですかっ?」
「もちろんだ。無理矢理屋敷に連れ込んでしまった詫びだ。疑ってすまなかった」
「いえ、とんでもないです。ご慈悲をありがとうございます、ジルベール公爵閣下」
(やりました、やりました……! あのハピアのケーキが食べられます!)
表面上は穏やかな令嬢を演じつつ、シンシアは心の中で乱舞する。まさかこんな形で食べることができるなんて。
神様は、甘いものが大好きなシンシアを見捨てなかったらしい。
(ありがとうございます、神様! ありがとうございます、ジルベール公爵閣下‼︎)
改めて神とリュファスを讃えながら、シンシアはテーブルの上に乗ったケーキを凝視した。
ケーキは計三つ。
ショートケーキ、チョコレートケーキ、ベイクドチーズケーキだ。
シンシアは迷うことなく、ショートケーキを手に取った。
「そ、それでは、いただかせていただきます」
気が動転していたせいか、めちゃくちゃな敬語を使ってしまった。恥ずかしくて顔が赤くなる。
だがリュファスは、そんなシンシアの失態に見て見ぬ振りをしてくれた。
「ああ、どうぞ」
謝罪とお礼を込めて、人形のようにぺこぺこと頭を下げる。
手早く食前の儀式を済ませたシンシアは、フォークを構えながらごくりと唾を飲み込んだ。
おそるおそるフォークをケーキに当てれば、黄色いスポンジ生地が軽く押し返してくる。さらに力を込めれば、ケーキはフォークを呆気なく通した。
一口サイズに分けてから、シンシアは一ヶ月ぶりのケーキを口に含む。
瞬間、目の前に花畑が広がった。
(何これ……すごく美味しいです……!)
スポンジ生地はきめ細かく、とても舌触りが良かった。生クリームもくどすぎず、優しい甘さをしている。挟まっているいちごは甘酸っぱく、爽やかな後味を残してくれた。
シンプルなのにこんなにも美味しいなんて、一体どれだけ良い食材を吟味して使っているのだろう。シンシアは一人感動する。
「美味しい……王城で食べたものの次くらいに美味しいショートケーキです……っ」
「そうか……なら良かった」
そこでシンシアは気づいた。リュファスの視線が、ショートケーキに向いているということを。
(もしかして、リュファス様も食べたいのでしょうか?)
ケーキは男性が女性に贈ることが多いのですっかり失念していたが、リュファスが食べたくて買った可能性もあったのだ。
シンシアは少し考え、皿をリュファスのほうに差し出す。
「ありがとうございました、ジルベール公爵閣下。残りはどうぞ、閣下がお食べください」
「……いや、それは」
「私は、一口食べられただけで十分です。それに……この感動を共有したいという気持ちがありまして……」
キラキラした瞳で、シンシアはリュファスを見つめた。
オルコット家が貧乏だったからだろうか。シンシアは、一つの食べ物を分けっこすることが多かった。
そうなるとちょっとしか食べられないが、味の感想を言い合ったりするのが楽しいのだ。
シンシアの圧に負けたのか、リュファスはショートケーキを受け取りフォークを手に取る。リュファスがケーキを食べるのを、シンシアはじいっと凝視した。
ぱくり。リュファスが美しい所作でケーキを口に含む。
そのとき、シンシアは見た。見てしまった。
リュファスの瞳が細まり、口元に柔らかい笑みが浮かぶのを。
(わぁ……ジルベール公爵閣下って、このような顔をするのですね)
鉄面皮がここまで崩れるとは思ってもみなかった。
これはケーキ好き確定ですね、とシンシアはにこにこする。高嶺の花だと思っていた人が意外と近く感じられ、なんだか嬉しくなった。
「美味しいですよね、美味しいですよね? スポンジ生地がしっとりしていて、生クリームは滑らかなのにくどくない。そしていちごの甘酸っぱさが、口の中を洗い流してくれるような、素晴らしい出来ですよねっ?」
「ああ。おそらくこのケーキは、ふくらし粉を使っていないのだろう。卵を泡立てて焼いたケーキは、とても美味しいのだ。使っている食材の素材も良い。誤魔化しが一切ないのが分かる味だ」
「本当にその通りです。三時間並ぶだけの価値があるケーキですね」
シンシアはリュファスと一緒に、のんびりのほほんとする。
まさか家族以外とここまでケーキ談話ができると思っていなかったシンシアは、普段よりもテンションが高かった。紅茶も美味しく、ケーキとの相性が抜群だ。
シンシアとリュファスはそれからチョコレートケーキとチーズケーキも分け合いっこし、味の感想を交わしていった。
(ジルベール公爵閣下、意外と親しみやすいです)
ケーキに関してここまで熱く語ると、大抵ドン引きされるのだ。
仕事仲間からは既に頭のおかしい子扱いを受けている。
それなのにまさか、あの王弟殿下とここまで話が合うとは。世の中分からないものだ。
「閣下は本当に、お菓子が好きなのですね。愛好の同志に出会えて、私とても嬉しいです」
喜びをいっぱいに詰め、シンシアがそう微笑んだときだ。リュファスの表情が一気に凍った。
(え……私今、何かおかしなこと言いました……?)
ティーカップを持ったまま、シンシアは固まる。
危ない、うっかりカップを落とすところだった。こんな見るからに高価なものを割ったら、借金が増えてしまう。
借金返済したら貴族令嬢らしいことをしたいと思っているのに、夢の実現が遠のいてしまうところだった。
するとリュファスは顔を隠すように手を当てた。
「……わたしはそんなにも、楽しそうにしていたか?」
「え……は、はい。とても……」
「そうか……そう、か……」
目に見えて落ち込むリュファスを見つめ、シンシアは首を傾げる。
先ほどのような展開になったらたまらないと、見るからに高価なティーカップをテーブルに置いた。今度あの顔を見てしまったら、カップを落としてしまいそうだ。
一方のリュファスは、何やらぶつぶつと呟いている。
「またあのような事態を招くわけには……しかし楽しかったのは事実だし……わたしは一体どうしたら……」
「……あのぅ? 大丈夫ですか?」
正直言って怖い。鬼気迫るものを感じる。
するとリュファスは今度は、シンシアのことをじっと見つめてきた。シンシアは内心ひい、と悲鳴を上げてしまう。
「…………オルコット嬢」
「は、はい! なんでしょう⁉︎」
「今君には、婚約者、ないしは恋人がいたりするか?」
「……え? いえ、おりませんが……」
リュファスはふむ、と一つ頷き。
「ならわたしと、婚約をしないか?」
まさかの発言を口にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます