第39話 あの人との再会

腕をつかまれた僕は包丁を持っていた手の力を抜く。

母さんへの殺意は蜃気楼のようにどこかへ霧散していった。

僕の感情の変化を見て、祖父も僕の腕から手を離す。


「どうしてここに?」


少しだけ、今までとは違う意味で怖かった。

あの祖父にこんな場面を見られてしまった。

僕が唯一心から信頼できる人間である、この人に。


「ユズルから連絡をもらったんだよ。家でなにかあるかもしれないから、覗きに行ってくれってな」


その言葉に僕はどう反応していいかわからなくなる。

怒鳴られてもぶたれても文句を言えないシーンを見られてしまった、それなのに落ち着いていて優しい祖父。

僕はその話の真偽を測る余裕もなく、立ち尽くす。

祖父も同じようにじっと立って僕の目をまっすぐに見つめていた。


二人が止まって世界が停止したかのように思えたが、そうではない人間が一人。

母さんだ。

ナイフを持ったままの僕の手をつかみ、ぐいと自分の胸に押し当てようとする。


「殺しなさいよ。さあ!」


狂ったように叫ぶ母さんに、僕ははっと正気を取り戻す。

引き戻さなくては。

ナイフを必死に胸元から遠ざけようとするが、先ほどとはくらべものにならないほどの母さんの力に僕は少しずつ力負けしていく。

1センチ、もう1センチと胸に近づいていくナイフに僕は戦慄した。


ぱしん


急に押し引きの力が横に跳ね飛び、僕の手からナイフが飛んでいく。

祖父が横からナイフをはじいたのだ。


「何するのよっ!」


ヒステリックに叫ぶ母さんの声に被せながら、祖父は僕に言う。


「カナメ、今はとりあえず逃げろ!」


その言葉で僕はその場から脱兎のごとく逃げ出した。

怖かった。

自分の死に直面して笑う母さんが。

殺してしまいそうだった自分自身が。

祖父の信頼を裏切ったかもしれないことが。

どれが一番かはわからない。

でもとにかく、恐怖で頭が真っ白だった。


リスクも考えられないくらいに、僕の心はぐちゃぐちゃだった。


道中で、影から”僕”を吐き出し、


「おい、大丈夫か?」


シャドウを実体化させ、


「ご主人様?」


そしてそれらを置き去りにして、僕は走りに走った。

小道を駆け抜け、ぐねぐねと曲がって、後ろを振り切る。

それこそ火事場の馬鹿力と言ったように、僕はいつもよりずっと早く走って走って。

でも走れば走るほど混乱は増していって。


気付いたら、一人になっていた。

ううん、一人になれていた、というべきか。


僕以外僕のいない正常な周りの空間で、僕はなんだかやっと息が出来る気がした。

あの日、と言っても、たった数日前か。

あの日、異世界転移してきた僕が来てから僕の人生は滅茶苦茶だった。


ソイツは魔法を使うわ。

幼馴染には犯されかけるわ。

異世界転生したっていう僕は現れるわ。

父さんには趣味の悪いショーを見せられそうになるわ。

おまけに母さんを殺しかけた。


「もういっぱいいっぱいだよ」


辿り着いた見知らぬ公園で僕は空に向けて叫ぶ。

叫んでもちっともすっきりしない。

ただ、体の疲労だけが一気に押し寄せてきて、僕は地面に膝をつく。

夜とはいえ夏の暑さに、体を汗が伝っていくのを感じた。


そんな僕の耳に、金属音が届く。

ぎこぎこと、少し油が十分でないことがわかるその音は、近くの遊具から聞こえていた。

顔を上げると、そこには立ちこぎでブランコをこぐ、女性の姿。


「やあ、きみ。昼間以来だね」


そう言って彼女はブランコから飛ぶ。

長い黒髪が、闇に紛れそうになって、でも電灯の光を受けて美しく光る。

大きな麦わら帽子に、白い肌。

そして、運動とは別にあがる心拍数。

彼女は、初恋の。


「お姉さんでよければ、話聞くよ?」


そう、言われて。

僕の心の堤防が決壊する。

そして僕は、今日あったことを、すべて彼女にぶちまける。

うまく説明する気がおきなくてゲームやルールのことは伏せたから、かなりわけのわからない、荒唐無稽な話だったろう。

なんてったって、幼馴染とデートに行ったらホテルに連れ込まれ犯されかけ、薬を盛られて目が覚めたら、父さんに危うくひどい目にあわされるところをヒーローに救われ、そして帰宅したら母さんにナイフで襲われて逆に自分で刺しそうになる。

どんな波乱万丈の一日だってね。

前世でどれだけの大罪を犯したらこんなひどい出来事を、一日で送らされるんだ。


けれど彼女は僕の話をうんうん、と頷いて聞いてくれた。

疑うこともせず、責めることもせず、ただ辛かったことを肯定してくれた。

僕はそれに、本当に救われる。

最後に祖父の話をしたが、彼女はこう言ってくれた。


「大丈夫、きみのことをちゃんと知っているおじいさんなら、それだけできみに幻滅したりなんかしないと思うよ」


外の人に、何の関係もない彼女にそう言われて安心する。


「ありがとう」


口からお礼がこぼれ出た。

ついでにちょっぴり涙も。


「ごめんなさい。全然関係ないあなたに、こんなことを話してしまって」


謝罪の言葉を言う塩っぽい空気の僕を元気づけるためか、彼女は明るい口調でこう言ってくる。


「いいのよ。これは私の務め。お姉さんはね、別の世界からこの世界を救うために来たんだよ」


すべての細胞が凍った気がした。

すーっと感じていた喜びや、暖かな気持ちが冷たくなっていく。

本当にそれは言ってほしくなかった。


転生とか、転移とか、別の世界とか。

もう、うんざりだ!


「君からそんな冗談聞きたくなかった」


僕は叫んで、公園を飛び出す。


「待って、私そんなつもりじゃ」


後ろで声が聞こえるが、振り返らない。

初恋の人に馬鹿にされるほど、僕は落ちぶれてたってわけだ。


走り、走って、また走る。

今度は走れば走るほど、思考がまとまっていった。

そして気付いて、立ち止まる。


もしかしたら、彼女は本当のことを言っていたのではないかと。

そして彼女ももしかしたら、このゲームへの挑戦者だったのではないかと。

だとしたら、彼女とこうして別れるべきではない!


慌てて公園に戻った僕だったが、すでに彼女の姿はそこにはなかった。

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