第2話

 時間というものは、誰にでも優しく、誰にでも残酷だ。大学を四日無断欠席した僕を、ついに友達が訪ねて来てしまった。明日は行くから、その一言を十数回繰り返して、やっと彼を帰すことができた。


 一生来ないでいいと思ったその明日は、残酷にも意外とすぐに訪れる。ベッドから手の届く範囲での生活にも慣れ始めた頃だったので、特に昨日などろくに食べていなかった。何か食べなければ。大学に着く前に行き倒れてしまう。あの子が作っていったおかずがまだ冷蔵庫に残っていたはずだ…。

 まだ少しと粘ったが、昨日の彼からのしつこい電話攻撃により、この温もりの世界から抜けださなくてはならなくなった。冷蔵庫の中身はなるべく見ないようにして、手前にあった牛乳を一気に飲み干す。ご飯くらい、コンビニで買えばいい。あそこに並んでいるものは、たとえ今日底つきても、明日になればまた変わらぬ姿で並ぶのだから。この世界から、ほんの少しでも君の痕跡が消えてしまうのが、忘れてしまうのが、怖かった。

 ドアを開けると、濡れた街並みが広がっていた。朝の日の光に照らされて、そこらかしこで輝きを放っていた。それは素直に美しいと言える光景だった。

 この四日間、僕はずっと、まだ一度も開けたことのない桐箱を握りしめて泣いていた。この毛布の、この部屋の外に出たとき、何も変わらなければいい、そう願いながら。桐箱の角張った痛みが、そんなことは絶対ないと僕に言い聞かせた。ドアを開けると、濡れた街並みが広がっていた。君も傘も無く、歩いた不快な街並みと同じだった。何も変わらないというのが、不自然でたまらなかった。再度彼からの電話がかかって来るまで、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 メロンパンとオレンジジュースが入った袋をがさがさ言わせながら、駐輪場に自転車を止める。アルミニウムの自転車がこんなに重く感じることは、この先何回あるのだろうか。さすがに自転車のスタンドがうまく立てられず、反対側でとめていた女子学生に助けられたときは、笑いがこみ上げて来た。もう一限は諦めよう。ご飯を食べて、どこかで休んでから授業に出よう。彼には一応大学には来ていると連絡しておけば、とりあえず大丈夫だろう。

 空き教室を探すために歩き回る気にはならなかったので、近場のベンチに腰を下ろした。メロンパンの袋を開けるときはいつも少し緊張する。そもそも僕がメロンパンを食べるようになったのは、彼女が大好きだと言ったからなのだ。彼女といれば、スズメを見る猫のような目つきで、僕の分を我が物にしようとしてくる。だからなんとなく周りを見渡して、そうしたら君が見つかったー!とおどけて言って。また取る気でしょと言ったら、なにそれ、失礼だなぁと少しむくれる君が可愛くて。毎回毎回そんなやりとりをしてしまう。だから一人でメロンパンを食べるのは久しぶりだった。今すぐ君が飛んで来ないか、そんな気になった。

 彼女が僕の前からいなくなった。触れることができなくなった。だから、彼女はいなくなったのだと周りは言った。

 そんなことないのになと思う。こうやって目を閉じて、君を思い浮かべれば、胸の温もりとともに君が僕の心を奪う。笑いかけてくれる…。


「おい、大丈夫か?」

 強めに肩を揺すられて、無意識のうちに返事をした。

「ん……なに…。」

「何じゃないだろ。春っつってもまだ冷えるんだから、外で寝るなよ。」

 んーっと一つ伸びをして、目の前に立った青年を、焦点の合わぬまま見上げた。

「あれ、僕…寝てたんだ。」

「ったく、大学に着いたって連絡の後、なんも反応しないから、どっかで行き倒れてるのかと心配したんだからな。」

征斗まさとは心配しすぎ。昔からそう。」

「だってお前っ、……そりゃそうだろ。」

 不意に目を逸らされた。全てが凍てついたような張り詰めた沈黙が訪れた。ああ、そうか。あの場所でもそうだった。目の端に僕をうつしながら皆んな僕を可哀想だと言う。

 あの時、彼女は目の前にいたのに。

 そこからあとはどこかテンプレートで、なんだかうんざりしてしまった。講義室に入れば、学友が、普段仏頂面の教授でさえも一様に「残念だ」「辛かったね」という。

「聞いたよ。ご愁傷様。もう大丈夫か?」

「突然のことだったし、本当に残念だよな。なんかあったら、相談乗るし、なっ?」

「私もほんと…何が何だかわからなくなっちゃって…。でも、辛いけど、お互いがんばろーね…。」

 何処かで聞いたことがあるのような、乾いた言葉が僕の周りを覆っていく。そうやって僕は、“可哀想な人”になる。

 僕は悲劇のヒーローになりたかったわけじゃない。この人生に特別なドラマなんて一つもいらなかった。ただひとり、君だけ。君がいる世界なら、なんだってよかった。

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