桜は散れど 魄は消えど
楪シゼ
第1話
空はどこまでも晴れていた。そこに虹色に輝く水粒が降っていた。優しく打たれながら、これを見たら彼女はきっとはしゃぐだろうと思った。無邪気に目を輝かせながら、自分の傘を僕に押し付け、優しいシャワーに躍り出る、水の
マンションの自動ドアを通り過ぎると、肩に乗った、まだ形のある粒をはらい、おろしたばかりの黒いネクタイを緩めた。
南向きに立地するここは、家主が出ていった部屋にも光を差すことを忘れない。濡れた街並みを背にして薄暗い部屋に入り、足だけで靴を脱ぐと、ジャケットとネクタイを剥いだ。宙に浮いた袖口から
慌てて出たままとなった部屋は、ごちゃごちゃと物が散乱していた。なんとか歩ける場所を保ったところを、片足立ちになりながら進んだ。見覚えのない書類のなだれに顔を曇らせた瞬間、勢いよく膝からこけた。スーツに被せていた袋で滑ってしまったのだ。その拍子にぶつかったテーブルから、後から後から物が降ってくる。後から後から、覆い被さってくる。
彼女がいたら、何やってるのーと半分呆れた顔で、手を差し伸べてくるだろう。そんな声を、当たり前のように求めた自分に気づいた。その声を探して、顔を上げた自分がいた。訳も分からず苛ついた心を沈めようと大きく息を吐き出し、改めてこの部屋を見渡した。君の息がする。そう、思った。お揃いで買ったペンダント、誕生日にくれたスニーカー、君が置いてったマグカップ。ノートに書いた落書き、料理法のメモ、中ほどに栞が挟まれた読みかけの本。
ゴミ捨て場のようなこの部屋をどうにかするために立ち上がろうとしても、膝に力が入らなかった。幾度も試みたが、生まれたての子鹿よりもか弱く、崩れ落ちてしまう。仕方がないと、その場にうずくまった。すると少し張ったズボンからの違和感を感じた。ああ、そうかと、ポケットから小さな桐箱を取り出した。ほんのりと熱が伝わってきたような気がした。しかしそれが自分の体温なのか、灼熱の名残なのかは、わからなかった。手のひらにのせて、とても開く気にはなれず、ただその重みを感じていた。開かずにいれば、まだ少し、周りが言うことを知らないふりできるとでも思ったのかもしれない。もちろん、気遣って持たせてくれたということをわかってはいるのだ。しかし、僕はただ木目をなぞって見ることしかできなかった。
君はいる。確かにいる。こんなにもそばにいる。しかし君はいない。いないと皆んなは言う。
『駅前十時。遅れないで来ること!』
最後に降ってきたのは、そんなありきたりなメモだった。
「来なかったのは、そっちじゃんか。」
つぶやいたその声が、感情を殺したその声が、逆に涙を誘うほど悲しく響いた。
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