第25話『目覚めの刻、朝餉の芳香』
「……華、雪華。」
私を呼ぶ声がする。果たして誰の声か、でも聞いたことがあるような声。
声が遠く感じる。まるで水の中にいるみたい。まるで空間に声が暈されてしまっているように、この空間が声を拒むように、声を退ける。
ゆっくりと目を開けても、暗闇だ。本来見えるはずの風景は黒く塗り潰されている。声は一層強くなり、私の体を包むように反響し、軈て何かに吸い込まれるように消えていった。
「誰、かいるの?」
私の言葉をも、この空間は反響させて、暗闇はそれを喰らう。ぽつりと呟いた私の声は、誰に届くこともなく、すぐに飲み込まれてしまった。誰の声なのか、どこで聴いた声なのか。どこにいるのか。分からない。分からないけれど、私はこの空間の中で、その声を探すのに必死だった。
「思い、出して。あの日々の記憶を。忘れないで。貴女の願い、その真意を。」
声が遠くなっていく。まるでもうこれ以上話せないと訴えるように、声の主は私に強く、必死に語りかける。何度も、『忘れないで』と。
暗闇が歪む。私の視界を蝕んで、見えていないはずのそれを感じ取らせた。まるで陽炎のようにゆらゆらと揺れては空間そのものを変容させ、私の視界で踊ってみせる。
どこ、どこにいるの。貴方は誰。声の主は見つからない。この暗闇では見えやしない。恐らく、女性、『彼女』は叫び続ける。忘れるな。思い出せ、と。何度も、何度も。
その『暗闇』さえ不明瞭になってしまう程に、陽炎が揺れた。『彼女』は声を更に声を張り上げて、私に告げる。でも、彼女の張り上げた声はもう遠くなってしまっていた。
「雪華!あなたの力は、████!だから、貴女は――」
声は途絶えた。暗闇は晴れ、私の目は開かれた。つまり夢から目が覚めた、ということだ。長い夢を見ていた。今度は少しだけ、覚えてる。夢醒めてなお、残響は私の耳に語りかけるのだ。誰かもわからない、あの声が。
この10畳の部屋の中心で私は起き上がり、欠伸をする。既に横の布団の住人は姿を消していた。いつもと変わらぬ同じ朝だ。
でもこの数日、数週間で変わったこともある。まず家が変わった。前のここより遥かに小さな一軒家から、このお屋敷に。
それは私の日常に大きな変化を与えた。
「あら、起きてたのね。朝食の準備するわよ。あの殺人鬼さんは寝てるようだけど。」
もう一つ変わったことがある。一人住人が増えたのだ。私の提案を仕方なく、いや快く受けてくれた彼女には感謝せねばなるまい。いつまでも弔木と二人というのも特にそういった感情を持たないにしろ、少々思春期の女子としてはむず痒いものだ。
それも王都祭が終わり、契約が切れれば無くなることではあるのだが。
元々彼女、夜汐澄香は一人で暮らしていた。と言っても家に帰るのは週に2日ほど。殆どは外で過ごし、睡眠などほとんど取らない生活を送っていた、と澄香は言っていた。だがそれも今は違う。もうそんな生活をする必要などないのだ。
「おはよう。」
「おはよう。朝食は何にする?」
乱れた髪を手櫛で直し、寝巻きの上にパーカーを羽織って私は台所へと立った。
彼女が来てから、私達は二人で毎日の料理を作っている。弔木は『じゃ、寝てるわ』と了承もなしに料理を作るのをやめた。
彼の性格はなんとなく分かっては来たが、気まぐれで本当に面倒くさいものだ。
「……私は焼き魚と玉子焼き、ご飯は今朝炊けるようにしたからあとは小鉢にサラダとかかな。澄香さんはなんかオススメのとお味噌汁お願い。」
「わかったわ。」
私は欠伸をしながら、テレビをつけて台所へ立った。起きてきた弔木がきっと見るであろうニュース番組をつけ、横目でそれを見ながら私は玉子焼きを焼く。
『昨日の深夜2:30頃、首斬り殺人事件の新たな被害者です。狙われたのは――』
聞き飽きるほどに日々被害者を出している『首斬り連続殺人事件』は既に13人の命をも奪っていた。これは言わば『不可視』である。手口、動機、それを推測することは誰にだって出来ることだ。だが、推測止まりなのが現状なのだ。それを知る人間は犯人ただ1人。誰も分からなければ知る術もない。
「また起こったの。世の中物騒なものね。」
「爆発する彩の人がそれ言うかなぁ」
私達は軽口を叩きながら支度を進める。玉子焼きが出来たから次は焼き魚を。少し甘めの玉子焼きをさらに盛り付けて、魚を焼いていく。
本来あるべき『朝』の匂いがこの部屋を、廊下を漂った。ニホンの朝はこうでなくては、等と誰が決めたかもわからないその清々しい文句は私の頭に浮かんでは消えた。
「そうだ、今日は学校じゃないの?」
「はは、首斬りのおかげでここ数週間は家庭学習だよ。担任からも『無能力』の私は外に出るなってさ。」
人の命が奪われている凄惨な事件にいうのは実に不謹慎極まりないことであるとは分かってはいるが、少しありがたく感じた。あまり好きではないのだ。あの空間が。
いつの間にか弔木が起きてきていた。
定位置である座布団に腰かけ、無言でじっとテレビを見つめる。活気のないその顔は、まるで魂が抜けた死人のようだった。
実際何度も死んではいるんだろうが。
「おはよう、弔木」
「……あ?あー……おう」
間抜けな声は、グリルの音に掻き消されてしまうほどに小さかった。ただ、口の動きでなんとなくわかる。『おう』とか『あー』とかそんな事だろう。
朝はいつもこうだ。自分の当番じゃなくなったら寝る時間が増えたからか魂が抜けるようになった。一時期は起こすのにも四苦八苦したものではあるが、今は自分で起きてくれる。
まさか自分の子供ではなく、知人。しかも大人。成人済みであろう青年の寝起きに苦労しようなどと誰が思ったか。
ご飯ができた所で一品一品食卓に並べてゆく。毎朝のことだが、恐らく我が家は比較的ほかの家庭よりはおかずの量が多い。
既にこの大きめの机を埋め尽くす程だ。
それにも、大して深くはない理由があった。
「「いただきます。」」
「……いただきます」
私と澄香の掛け声のあとに遅れて小さく弔木は呟いた。弔木はボリボリと沢庵をまる齧りしながら、いつもと同じようにつまらなさそうにニュースを眺めた。
我が家の一食における量が他の家よりも多いであろうという根拠、それは澄香さんだ。簡単に言えば彼女は大食いなのである。どうも『彩』を使うにあたって膨大な何かを消費しているらしく、すぐにお腹が空いてしまうらしい。人一倍強い代わりに人一倍腹が減り、喉が渇く。
数日前、王城に行った時に紅茶を何杯も飲んでいたのもその関係だという。
「雪華、今日は何か予定ある?」
「ないね。まったく。勉強する気も起きない。」
私がそう言うと澄香は少し嬉しそうな顔をして、一瞬考え込むような仕草をすると、すぐに私の目を見て話を続けた。
「外出したらダメだって言われてるのは分かってるんだけど……検査、行ってみない?」
「検査?健康だよ?」
検査、とは一体どういうものなんだろう。私は至って普通の健康体だ。それに病院に行った時に何度も傷の検査は行ったわけだし。絆創膏を10枚程度貼るくらいの外傷はあるがそれ以外特にこれといって目立つものは何も無いはずだ。生活にも支障はない。
「ええ、知ってるわ。見ればわかるし『彩』のお陰でこの国の医療は世界でも最高峰。あなたのその自然回復で何とかなる小さな傷以外は何一つ無いもの。」
「何も無いのに何を調べに……?」
「何があるかを調べに行くのよ。」
彼女は少し、口篭るようにして私の目を真っ直ぐに見て伝えた。
ああ、そうか。と短く、私は心の中で呟く。それは夜汐澄香という一個人の発言への幻滅でも、失望でもない単なる自己が理解したという確認だ。
それを視野に入れていなかったのはこの平和ボケのせいか、それとも私が馬鹿なのか。恐らくその二択だろう。
思えば私の特異な所は彩を持っていないところだけではなかった。まだ1つ、いや探せばもっとだ。問題は私という存在に残されている。それは正直、この国の医療でさえ分かりかねないものかもしれない。
疑問に思ったのだ。答えはあるのか、と。
なぜ、私が急に力を持ったのか。
なぜ、私が無能力なのか。
なぜ、なぜ、なぜ。
数え切れない程の奇怪。異端なる疑問。
それを知るために、行こうというのだ。
「――『異能力総合研究訓練所』にね。」
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