バカは風邪を引かぬ

 彰吾を文明の利器でたんまりかわいがってあげた結果、彼は熱を出して寝込んだ。

 いいや、文明の利器が直接の原因ではないとは思う。ただ、たんまりかわいがってあげたあとで、彼が肌寒い部屋でシャワーも浴びずにぼんやりしていたのが原因だとは思う。


「……」


 季節外れの高熱にうかされる彰吾は、ベッドに沈み込んで浅黒い頬をしっとりと赤く染めている。もともと色素の暗い肌色は、それはそれはきれいだ。びっくりするくらいなめらかで、ひげも薄い。そもそも体毛が男性にしては薄いんだよなあ、汐里ちゃんは、毛も生えてしまった、と笑っていたけど。

 ベッドに腰かけて、彰吾のしんなりした薄暗い茶色の髪の毛を撫でつける。刈り上げた両サイドも汗で湿っていて、ちょっとかわいそうだった。

 彰吾はあたしのことを体力お化けと言う。それはちょっと違うと思っている。だって、あたしだって一応気持ちよくはあるけど、彰吾の負担に比べたら全然大したことしていないし、ああいう器具を装着して腰を打ちつけるだけならそこまでの負担にはならない。何回も何回もいっちゃってる自分と一緒にしてくれちゃ困る。


「彰吾」


 うっすらと開いた目、黒目があたしの顔をしっかりと捉えて、痛々しげに頬が持ち上がる。そわ、腕が伸びる。


「……ちとせちゃん」


 伸びてきた腕に力なく身体を押され、うつるから、ささやいてたしかな拒絶を受ける。その手を握りしめて、あたしは小さく、ありがと、とささやき返した。

 彰吾は案の定、なにが、というふうにきょとんとした。分からないでいい、彰吾はあたしのありがとの理由なんて、知らないままで。


「彰吾具合どうだった?」

「うん……、ちょっとつらそうだった」

「そっか、なんだろうね、インフルじゃなかったけど」


 おばさんが、あきれたように鼻息を荒くして、まくしたてる。


「聞いてよ、病院に行ってせっかく薬出してもらおうってときになって、注射は痛いからやだ、錠剤は飲み込めない、粉薬はまずい、とか言い出して……」

「ふふ」

「笑いごとじゃないよ~、おばさんどんだけ恥ずかしかったか!」


 では結局彼はどうしたのだろう? 医者にかかって手ぶらで帰ってこられるわけがない、無理やり注射でもされただろうか。あたしが首を傾げると、おばさんはちょっと不思議そうに顔を歪めた。


「彰吾、座薬なら平気だって言うんだよね。錠剤飲めなくて座薬は入れられるのかって感じだよねえ」

「あはは、でもほら、座薬は即効性があるから」

「ああ、そういえば先生もそう言ってたかも……」

「でしょ? 同じ苦痛なら、早く楽になれるほうがよかったのかも」


 彼にとって錠剤を飲むよりも座薬を入れるハードルが低いのはある意味当たり前なんだけど、それをもちろんおばさんは知らないし、知らせるつもりはない。……少し前に、うっかり汐里ちゃんに話してしまいそうになったけど。こらえたし。

 病院の処方箋の紙袋が、彰吾のベッドの枕元に転がっていたのをふと思い出す。座薬、自分で入れたんだ、あのベッドの上で。うつぶせ? それともあおむけで?


「大学、春休みでよかったね」

「そうだね」


 おばさんが淹れてくれた紅茶をひと口飲んで、お茶菓子をつまむ。ひとしきり、息子についての文句を連ねたあとで、おばさんはあたしに向き直る。


「すごく不思議なんだけどさ、千寿ちゃんは彰吾のどこがよかったの? 千寿ちゃんくらいかわいくって頭もよくていい子なら、何もうちの子じゃなくても」

「……彰吾は、あたしにはないもの、いっぱい持ってるから」

「…………たとえば?」

「……」


 息子不信がすごい。

 真剣そのものの表情で眉を寄せ本気で聞いてきたおばさんに苦笑する。


「彰吾はすごいなあって思う」

「どこが?」

「あたしとは、考えてることが全然違うところ!」

「……?」

「ふふふ」


 曖昧に濁して、でもほんとうのことを言って、笑って見せる。彰吾は、あたしと考えることとか感じるものが全然違って、それが目を逸らしたいほどまぶしくて、でもほしくて手が伸びてしまう。

 あたしの一面しか見えていないおばさんには、いくら話をしたってきっと彰吾のすごさは分からない。それでいいのだ、って思うけど。あたしだけが分かっていればいいと思うけど。

 でもきっと、彰吾のよさを分かっていてもいなくても、結局誰も彰吾をほうっておかない。なぜだか知らないけどこの人をほうっておけない、そう思う人はきっと多くて。……たとえば彰吾と同じ学科の生田さんとか。あの子が彰吾を見る目は完全に恋しているもんな。


「この間成績表が届いたけど……Bってそんなによくないんでしょう?」

「え? いや、BはAの次だし、悪くは……」

「でも、Aじゃないでしょ? さぼってるわけじゃなさそうなのにAじゃないってことは、テストとかレポートがいまいちってことでしょ?」

「……」


 あたし自身はオールAの成績だったので、へたにフォローもできないなあ。と後ろめたくなりながら、なんでおばさんは彰吾にこんなに風当たりきついのだ、と思っていると、リビングのドアが控えめに開いた。


「あ、彰吾。あんた起きて大丈夫なの?」

「ん……アイス枕、換えてほしい」


 立ち上がり、おばさんがキッチンの冷蔵庫の前で作業をしているのをぼんやり見ながら、彰吾が呟いた。


「千寿ちゃん、うつるから、帰りなよ」

「……別に、うつってもいいけど」

「……俺がよくない……」


 拗ねたようにとがった唇にそっと自分の唇を寄せて、一瞬だけ触れさせて鞄を持った。


「分かった、帰るよ」

「……」

「お大事にね」

「あれ、千寿ちゃん帰るの~?」


 戻ってきたおばさんに軽くおじぎして、コートをはおり外に出る。季節外れ、と思ったけど、よく考えたら三月末なんてまだまだ寒いし、風邪を引いてもおかしくないか。マンションの共同廊下を冷たい北風が吹き抜けていく。

 うつってもいい、なんて言ったけどあたしも気をつけよう……。


 ◆


「え?」


 すっかり完治した彰吾と並んで歩きながら、そういえば……と何気ない気持ちで成績の話をすると、思っていたのとは少し違う反応が返ってきた。

 おばさん、成績にけっこううるさいね。そう言うと、まあね当たり前だよね、と。


「なんで?」

「俺も知らなかったけど、俺の姉ちゃん毎年ほぼ全部Aだったから、母さんはそれがふつうだと思ってたみたいで」

「汐里ちゃんが」


 意外、と言ってもいいのかいけないのかよく分からなくてどうともつかないような顔をしてしまうと、それを見た彰吾が相好を崩した。


「超意外でしょ、俺の姉ちゃん優等生とか、ウケる」

「いや、ウケはしないけど」


 ひゃひゃひゃ、とあんまり聞いたことない笑い方で、汐里ちゃんの悪口がまあ出てくる出てくる。


「姉ちゃんって俺ずっと、遊びとバイトの片手間で大学行ってると思ってたんだよね~、インスタ映えする食べ物とか場所とか景色とかすげー好きだし、実際姉ちゃんのインスタやばいし、なんか知らないけどパンピなのにフォロワーの数えげつないし。でも、さあ……」

「……?」

「俺が進路悩んでるときにちらっと相談したら、大学は行って当たり前だからわざわざ行くって言わない、みたいなこと言われて、意外とちゃんとしてる? って思った」


 彰吾はたぶん、汐里ちゃんのことをちゃんと、お姉ちゃんとして尊敬している。本人たちがそれに気づいているか否かはともかくとして。

 汐里ちゃんは、今年から四年生で就活がはじまるんだったと思う。実家を出るかまでは聞いていないけど、出て行ったらきっと、彰吾はそれはそれはこっそりさみしがるのだろう。

 まだ、となりでぺらぺらと汐里ちゃんの愚痴じみた親密な言葉を笑顔でマシンガンのようにしゃべっているのを、あたしはなんだかほほえましい気持ちで聞きながら、さえぎった。


「ところでさ、彰吾さ」

「ん?」

「風邪、座薬で治したんだって?」

「…………」


 汐里ちゃんの悪口が、おばさんへの罵詈雑言にシフトした。

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