先に行って待ってて

 余談ではあるがトシは専門学校に通うにあたり、独り暮らしを始めた。なるほど、みゃあちゃんを連れ込み放題である。


「感想に悪意を感じる」

「俺も実家出ようかな……」

「聞いてる? ……あっバカこぼれる!」


 そんなトシの狭いワンルームの、さらに狭いキッチンで俺が何をしているのかと言うと。貧弱な腕力をフル活用して卵白を泡立てていた。


「これどんくらい泡立てたらメゲンレ? になるの?」

「メレンゲ、な。まあ卵白常温だし、二、三分でできるんじゃねーの?」


 トシは適当なやつだ。常々そう思っている。でも、お菓子作りに関しては、俺の乏しい知識でも「適当」が許されないことは分かる。材料の計量とか、焼いたりする時間とか、そういうのって「適当」じゃダメなんだろ。

 結論から言うと俺がメレンゲを、トシいわく角が立つくらいの硬さにするのに、十分かかった。クソかよ。悪態をつけば、おまえの手際が悪い、と返ってきた。


「腕が死ぬ」

「おい、死んでねーで次の工程いくぞ」

「鬼かよ」


 キッチンのすみっこでしゃがみ込んでうなだれていると、容赦なく次の作業にせっつかれる。俺はぐだぐだ言いながらも、きちんと立ち上がりメレンゲを、さっきつくっていた卵黄メインの生地に入れる。メレンゲが上に浮いてくるようにしてととのえてから、生地が入っているタルト型より、もう一回り大きなタルト型に水をそそぎ、低めの温度(らしい、俺にはとても高温に思えるけど……)で余熱しておいたオーブンに突っ込む。


「……これ、ほんとにできんの?」

「さあ。ガトーマジックのこわいところは、切って見てみねーと成功失敗が分かんないとこだからな」

「はあ!? それ最初に言えよ!」

「なんで?」

「俺千寿ちゃんと一緒に切る予定なんだけど!?」

「つまり、失敗してたら大坂さんの前で赤っ恥か」


 にやにや笑いながらえぐいことを言ってくるトシに、もうなんにも言えない。一応教えてもらったし。最初から最後までつきっきりでやってもらったし。

 でもそもそもなぜガトーマジックとかいう聞き慣れないお菓子にしたのかというと、トシが「わりと簡単で特別な材料も使わないけど、まあまあ楽しいお菓子がある」と言うからであって、お菓子について右も左も分からない俺はそれに飛びつくしかないのだから、アドバイザーにも責任の一端は……。


「ねえよ。人のせいにすんな」

「心の声に返事するなよ!」

「ダダ漏れなんだよ。素人なりに、ネットで調べるとかあるだろ、人のせいにすんな」


 焼いている時間、暇なのかトシは洗い物をしている。手伝う、と申し出ると、もう皿割られたくない、と突っぱねられた。はい、最初の準備の時点で百円ショップの白い陶器の皿を割ったのは俺です。

 片付けているトシを、オーブンの前に陣取りながら横目で盗み見る。

 変わった、よな。前は長めのヤン毛がぴょんぴょんしていて、色白なギャル男みたいだったのに、製菓の専門だからか髪の色は明るいもののしっかり短く切りそろえられていて、ふらふらと女の子の尻を追っかけていた一重の瞳は、将来を見据えるようにきちんと焦点が定まってきている。服の趣味はそう簡単には変わらないみたいだけど、最近こいつと出かけても、女の子に目移りしたり、しなくなっている。


「……おまえ変わったよな」

「あん? なんの話?」


 ボウルを拭いているトシがこちらに視線を向ける。感じたことを感じたままに伝えれば、ああ、と斜め上を軽く睨むようにして、照れたように笑う。


「俺、専門出て就職したら、みゃあと結婚しようと思ってて」

「……は?」

「いつまでもふらふらしてらんねーだろって、ははは」

「え、だって製菓学校って二年制だろ? 卒業まであと一年じゃん……」

「そーだけど?」


 突然の告白に頭が追いつかない。あと一年したらトシは社会に出て、しかも結婚して……?

 トシが? あのエクストリームちゃらんぽらんあほのトシが!?


「だから心の声が漏れてるっつの」

「なんっ、えっ、けっこん」


 けっこうショックだった。俺はまだ将来自分のやりたいこととか全然見つかってなくて気楽にウェイ系大学生なのに、同じような人種のはずだったトシが、しっかり未来を見据えて考えていることが。

 泣き出しそうになってオーブンの前に身を投げ出して床にべったり頬をつけると、トシは、高校時代と変わらぬくちゃっとした笑みを浮かべ、俺のとなりにしゃがみ込む。


「何へこんでんだよ、結婚したって友達だろ」

「うっ、うっ……」


 慰められるのがみじめである。すっかりしょげて唇を尖らせながら、俺はただただケーキが焼けるのを待っていた。

 ケーキの粗熱をとってから箱に入れ、ラッピングをほどこしてトシ宅を後にする。鼻の奥がきゅんと冷たくなる寒さの中、急ぎ足で自宅に帰って冷蔵庫にケーキの箱を突っ込んで、一応、姉などに勝手に食べられないように「しょーごの」とメモ書きをしておく。自分の名前、漢字で書くの面倒くさい。

 トシの家を出る前に、奴が放った言葉が、いまだに俺の心をちくちくと刺している。


「結婚式、絶対来いよな」


 結婚式、するんだ。てか、マジで結婚するんだ。あんな俺の知らない照れくさそうな笑顔で、みゃあちゃんと一生の愛を誓うのか、あのトシが。


「猪澤くんが結婚?」


 翌日、千寿ちゃんとのおうちデートにケーキの箱を持って馳せ参じる。もしかしたら失敗してるかもしれなくて~とぐだぐだ言い訳しながら切り分けると、ネットの写真で見たような、きちんとした三層のケーキになっていて正直めちゃくちゃ感動した。俺すげー! と自画自賛していると、千寿ちゃんはむっつりと俺を睨みつけるように見つめ、なんだ、と身構えたところなぜか頭を撫でられた。無言で。何度も。ぐりぐりと。なに。


「うん、専門出たら、なんか式も挙げるんだってさ……」


 切り分けたガトーマジックをもぐもぐしながら、そういえばさ、とトシが結婚するらしいことを話す。千寿ちゃんは、ふうん、と相槌を打って、少し物思うように黙したあとで、フォークを口から引き抜いて言う。


「これすっごくおいしい。どうやってつくるの?」

「意外と簡単だった。卵黄メインの生地に、メレンゲ軽く混ぜて蒸し焼きにするだけ」

「へえ……今度あたしにも教えてよ」

「いいよ……ちがくて」

「え?」

「今トシの話してたでしょ?」


 ぽかんとされて、ん、と思う。


「猪澤くんの話はもう終わったでしょ?」

「いや? いやいや? 終わってないよね?」

「え、なんで? 結婚するんだって。ふうん。で終わったでしょ?」


 あ、そうか。と気づく。

 俺にとってトシは、親友で一緒にばかなことしていた悪友で、だから置いてけぼりにされている気持ちが強いけど、彼女にとってはただの同窓生が結婚するだけの話だ。ふうん、で終わりに違いない。


「俺、進学してそろそろ一年経つけど、とりあえず心理学勉強してるけどぜんっぜん授業に興味わかないし、自分が何したいのか何が向いてるのかもよく分かんないのに、トシだけさっさと将来決めちゃって、置いてかれてるような気がするんだよね」

「……」

「千寿ちゃんは、高校の先生になるっていう夢に向かってちゃんと勉強してるし……」

「……」


 ケーキをフォークで切り分けてひと口大にして、ぽいと口に放り込む。甘い。おいしい。

 大学に行けば自然とやりたいことが見つかるんだと思ってた。でも違った。現実は甘くなくて、自分が何のためにほぼ毎日学校に行っているのかさえ分からないのだ。


「彰吾は、今勉強してることとはなんにも関係ない仕事をするような気がするな」

「えっ。それめっちゃ意味なくない?」

「あるよ。彰吾が勉強したことは、絶対に何かに生きる。心理学を勉強した人が全員心理学者や医者になるなんてありえないし、文学部に行った人がみんな本や文章に携わる仕事に就くわけじゃない。でも、どこかで、学んだことは絶対に生きる」


 そうかなあ。唇を尖らせる。千寿ちゃんは笑って、ケーキをひと口食べる。


「ユダヤ人の格言で、知識は奪えない、っていうのがあるんだけど。ほんとそうだよ。お金とか、目に見えるものは簡単になくせるし奪える。でも、学んだことは、自分の中にある知識は、絶対に誰にも奪われない。それってものすごい財産でしょ? 彰吾は今それを、蓄えてる途中。この先の自分のために」

「……」

「このケーキの作り方だって、彰吾が忘れさえしなければ何度だって作れる。作って、誰かに食べさせて、その人が笑顔になる。それは、誰にも奪えない経験になる」


 千寿ちゃんは、自分に与えられた分のケーキの、最後のひと口を食べてしまった。


「おいしかった。また作ってよ、来年のバレンタインも、あたしこれがいいな」

「……」

「今度は猪澤くんの助力なしで」

「ええ、むり」


 いたずらに笑う瞳に、思わず拒否反応が出る。コーチなしでお菓子作りなんて絶対無理。そう思う半面、やってみようかなと思う自分もいる。

 ガトーマジックの作り方を覚えて、千寿ちゃんにこうしておいしいって言ってもらえる経験は、たしかに全然無駄なんかじゃない。きっと、トシは自分の作ったお菓子をたくさんの人に「おいしい」って言ってもらいたくて勉強しているんだろうなって思う。

 じゃあ、俺は、何がしたいんだろ。


「焦ることないと思うけどなあ」


 俺の心のうちを読んだかのように、千寿ちゃんはフォークを揺らしながら呟く。俺はまた心でしゃべったつもりが声に出ているのか?


「大学は、まあ四年生は卒論と就活に追われるとして、あと二年あるし、たぶん彰吾はやりたいこと見つけたら、そっちのけで努力できると思うし」

「……そうかな?」

「だって、K大合格する、って決めて、ほんとに合格したじゃん。あれ、地頭がどうって言うより、彰吾の集中力と努力のたまものだと思うよ」


 あ、なんか、分かったかも、千寿ちゃんがかっこいい理由。

 中原くんに吐き捨てられた、いいよな大した努力しなくても人の上をすいすい飛んでいけちゃう奴は、という言葉が揺らぐ。

 千寿ちゃんは、ちゃんと相手を見ているのだ。俺の努力を、踏みにじらないのだ。認めて、ちゃんと適正に評価するのだ。

 俺はたしかに勉強の要領はいいのかもしれない。人の半分の努力で人並みになれるのかもしれない。

 でも、俺の中で精一杯の努力はしてる。それを認めてもらえるだけで、今はじゅうぶんかもしれない。


「千寿ちゃんってマジかっけーな」

「え? なに急に……」

「いや~惚れてまうやろ~」


 うんうん、と頷きながら、最後のひと口を放り込むと、そのフォークを持っていた右腕を千寿ちゃんのやわらかな手が掴んだ。


「ん」

「……じゃあ、今まで惚れてなかったんだ?」

「…………とっくにべた惚れです……」


 流し目でうっとりとほほえまれ、顔の温度が急上昇する。あー、今俺、メスの顔してる自覚あるぞ。妊娠スイッチオンって感じ……。視線で想像妊娠余裕すぎるつらい。


「じゃあもっともっと惚れさせてあげないと」

「あっ、待って、千寿ちゃんどこさわって、あっ、うわあ!」


 ◆


「彰吾~、このケーキ、残ってんの食べていいの?」

「いいよ、あげる」

「わ、おもしろい、三層になってる~」

「姉ちゃんさあ……」

「ん?」

「あんま食べすぎっとデブるよ」

「うるせえよおまえこそ最近女の子みたいに丸いぞ」

「…………えっ」

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