カノジョのメランコリー

 そっと、隣室と接している壁に耳を当てる。こんなことをしてはいけないと分かっているのだが、どうしても気になるものは気になるのだ。

 こもった話し声、何をしゃべっているのかまでは分からないが、時折彰吾が笑い声をあげるのが分かる。

 普段彼らはうちに来ない。というのは、あたしがあまり家にいないからそう思うのかもしれないけど。まあ結局のところいちゃいちゃしたいのだろうし、姉がいる時にカノジョを部屋には連れてこないよなあ。

 時折、しゃべる音が途切れたり、ほかの物音がしたりする中、突然、彰吾の慌てたような少し跳ね上がった声が響いた。千寿ちゃん、と言った気がする。


「……?」


 それきり、隣室は静かになってしまった。やな予感。

 と思ったので、あえて大きく咳払いして椅子を力強く引く。あたしここにいますよ、という自己主張だ。

 家族のそういったことほど気まずいものはなかなかない。彰吾は、千寿ちゃんと付き合い始める前からやり手で女の子が途切れたことはなかったし、たぶん相当場数を踏んでいるんだろうと思う。どうせ千寿ちゃんともやりたい放題やってるんだろうなあ、と想像だけしておく。

 しかしあたしが部屋にいる分には、好き放題させないのである。


「……姉ちゃん、いたんだね」


 夕食のとき、彰吾が恨めしげにあたしに呟いた。どうやら、咳払いされるまで、あたしがいることに気づいていなかったらしい、平和な脳みそをしている。


「まあね。今日は用事が急にキャンセルになったから」

「ふーん……」

「ていうかあんたまたあたしの部屋から漫画持ってったでしょ、返してよ」

「え? あー。持ってったような、持ってってないような……」


 野菜炒めをつつきながら、彰吾が記憶を引っ張り出そうとする。ちょっとエロいシーンがある漫画を借りられることに羞恥心がないわけでもないが、もう慣れた。

 夕飯を終えて彰吾の部屋で漫画を探しながら(今日の昼に千寿ちゃんが来ていたというのに、なかなかの汚さである)、ふととあるものを見つけてしまう。

 これは……ごむ。


「……」

「あ、あったあった。姉ちゃん、はい……おあー!?」


 未使用のゴムがあたしの視線にさらされていることに気づいた彰吾が、それを蹴ってベッドの下にシュートする。たいへん気まずい空気の中、エロ少女漫画を手渡してくる彰吾が、ぼそっと言った。


「あの……見た……?」

「え、見た……」

「そ、そっか……」


 気まずさが最高潮である。ふたりで少しだけ沈黙を共有し、大人のあたしからちゃんと何か気の利いたことを言ってやらんとなあ、と口を開いた。


「まあ、避妊は大事だよね」

「…………」

「あれ? あたしなんかミスった? なんで黙ってんの?」


 当たり障りなく、彰吾の欲求と、きちんとセーフティにコトに及んでいることを認めたつもりだったのだが、言葉の選択を失敗したのか?

 ちらりと自分より少し高いところにある顔を覗き込むと、赤くなっているわけでもなく、なんとなく居心地の悪そうな渋い顔をしていた。


「?」

「あ、まあ、そうだよね……大事だよね……」

「うん。……?」

「大事なんだよなあ~……」


 なにか、避妊について思うところがあるらしく、ひとしきりそうだよなあとか何とかうなって、彰吾はあたしに漫画を押しつけるように渡して部屋を追い出した。

 部屋に戻って本棚に漫画を挿し込みながら、ふととあることに気づく。彰吾は避妊を大事に思っている。そしてそれについて思い悩むということは。

 千寿ちゃんがゴムなしでやりたがるってこと……?


「いや、それはだめでしょ」


 弟にそんな突っ込んだ質問はさすがに気まずくてできない。でも、たぶん千寿ちゃんにならできる。

 早速、ラインを飛ばして千寿ちゃんと会う約束を取り付けた。大学の帰り、バイトがない明日、千寿ちゃんの大学の近くのファミレスで。


 ◆


「え?」

「だから、彰吾とのことなんだけど……」


 いざ、千寿ちゃんを前にすると、やっぱり聞きづらい。あたしは、勢いで誘ってしまったことを少しだけ後悔しながら、パフェをスプーンで崩す。大きな切れ長の瞳が真ん丸になって、じっとあたしを見つめた。


「彰吾の? 何かあったの?」

「……昨日ね、あいつの部屋でゴムを見つけて」

「……」

「冗談で、避妊は大事だよね~っていう話になったんだけど、なんかあいつの返事が、こう……ね」

「……」

「もしかしてあいつ、つけずにしてたり、しない?」


 とりあえず、彰吾が悪者であるように仕立て上げて聞けば千寿ちゃんも言い出しやすいはず。

 千寿ちゃんの表情をうかがうと、真顔というか、表情を固めて黙り込んでいる。あたしの話した内容を噛み砕こうとしているのか、返答を考えているのかは分からない。

 千寿ちゃんの前に置かれたコーヒーが、湯気を立てている。


「……ちゃんとつけてるよ」

「あ、そう? ならいいんだけど……」

「大丈夫、妊娠したりしないし、しても責任は取るし」

「いや、責任取るのは彰吾のほうでしょ? ってか、あたしが言うのもなんだけど、ゴムも百パーじゃないしね……」

「……」


 千寿ちゃんが何か言う。聞き取れなくて、え、と言うと、口元だけで鮮やかにほほえみ、彼女はあたしをじっと見つめた。


「汐里ちゃん、あのね」


 そのとき、空いていた隣席が騒がしくなり、客が数人席についた。


「……姉ちゃん?」

「あれ、彰吾」


 声をかけられて顔をそちらに向けると、今まさに席に座ろうとしていた男の子があたしを見ていた。

 そして、あたしと相対している千寿ちゃんに気づくと、えっ……と呟く。


「何してんの?」

「お、ショーゴのカノジョじゃん」

「そっちはショーゴの姉ちゃんなの?」

「あ、うん……」


 彰吾の友達、って感じのチャラめの子たちだ。K大はわりと頭がいいからまじめな子が多いと思っていたけど、やっぱり大学生になると、頭の良さと外見は比例しないな。

 メニューを見ながらやいやい言い始めた男たちを放って、千寿ちゃんに視線を戻す。


「何か言いかけてなかった?」

「……ううん、いいの」


 切れ長の目で、彰吾の友達を横目に眺めながら、千寿ちゃんはくすくすと笑う。それに気づいた彰吾が、訝しげな視線を彼女に向けた。


「なに? ふたりでこんなとこで、なんの話してたの?」

「別に、千寿ちゃんと久々におしゃべりしたくて誘っただけだよ」


 絶対に信じていない顔で見られ、昨日のこともあるしなあ、と思って曖昧に笑ってごまかす。


「彰吾がちゃんと大学生してるか、探りを入れてただけだよ」

「はー!? 馬鹿にすんなよ!」

「ショーゴ姉ちゃんに心配されてやがんのウケる」


 友達にけたけたと笑われて顔を真っ赤にした彰吾に、にんまりと笑いかける。

 それから、あきらめたように友達の輪に戻っていく彰吾を尻目に、千寿ちゃんと少しだけ世間話をして、あたしたちは席を立つ。そのとき、彰吾がちらりとあたしを見て、気まずそうに視線を逸らした。


「……?」

「汐里ちゃん?」

「あ、うん」


 一瞬、その視線が気になる。

 となりを歩く千寿ちゃんは、眉を寄せてため息をついた。


「彰吾、今日も朝まで遊ぶつもりかも」

「え? ああ」

「お酒も飲めないくせに友達といると楽しいっていう理由で無理してほしくないんだけどな」


 あたしにとっては、それはじゅうぶん無理をする理由になるので、何も言えないけど、千寿ちゃんにとってはいやみたいだ。まあ、なんとなく気持ちは分かるけどここは彰吾を擁護してあげたいなあ。

 まあまあ、と言おうとしたところで、千寿ちゃんがふわっと笑顔になる。


「でもまあ、怒ったらちゃんと二週間くらいはおとなしくしてくれてるから、いいけど」

「……怒るの?」

「うん、お仕置きする」

「お仕置き」

「えへへ」


 かわいく、照れくさそうに笑って、千寿ちゃんが、あたしこれからバイトだから、と駅のほうに向かう。あたしは今日はバイトがなくって、友達とも予定を入れてないので、家に直帰するかどうしようか悩む。結局たまにはまっすぐ家に帰ろうと思って、あたしも駅のほうへ。


「お仕置きって何するの?」

「ん~……ふふ」

「え、なに~、なんかエロいぞ?」

「あはは」


 鮮やかな大輪のような笑みを浮かべる千寿ちゃんは、どうやらお付き合いに関しては彰吾の手綱をしっかり握っているようだ。

 散々女の子をとっかえひっかえしてはひっぱたかれてきた弟なので、ちょっと、いやかなり安心してしまった。そうだよね、千寿ちゃんのことずっと好きだったみたいなんだから、そりゃあ大事にするよね。

 あたしは、楽しいこと大好きだけど、恋愛とかそういうのに関しては身持ちが固いほうなので、彰吾のあのふらふら度合いは好きじゃなかったけど、千寿ちゃんに任せておけば安心だ。あとは彰吾が彼女を妊娠さえさせなければ……、そういえば、結局なんで彰吾はゴムを見つけたとき、ちょっと表情を曇らせたのだ?


「分からん」

「え?」

「うーん、いや……」


 まあ、そんなことを千寿ちゃんに聞いたって、答えが返ってくるはずもないよな。

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