アレが気になるお年頃
おやまあ珍しいこともあるもので、武本からラインの通知があった。スタンプ。
「は?」
起き抜け、洗面所で歯を磨きながらスマホのチェック。ロックを解除してトークルームに入ると、深夜に送信されたそのスタンプは、なんだかよく分からない生物が、たすけて、とか言っている。は? である。
深夜二時過ぎ。通常通り、寝ていた時間だ。さすがに緊急の用件でこんな馬鹿げたスタンプひとつで済ます気はないだろうから、今返信しても問題ないだろう。どしたの。
スマホを置いて口の中の歯磨き粉の泡を吐き出し、口をゆすぐ。タオルで口元を拭ってからふたたびスマホを見ると、返信が。早いな。深夜二時に起きていて、今もなお起きているのか。あの姉にしてあの弟ありな、パリピなのかもしれん。
『海に行けない』
何言ってんだコイツ。
「は?」
それだけ返信して、続きというか詳細というかそのようなものを促してみる。すると、通話がかかってきた。少し悩んで、取る。
「……もしもし」
『あのっ、こんなことを友達に相談するわけにもいかず……』
「落ち着け、なんのこと言ってんだ」
というか、まあ分かっていたことだが、武本の中で俺は友達のくくりに入っていないんだな……。別に、いいけど。
なんだか軽いパニックに陥っている様子の彼に、どうにか事情を説明させる。
「…………乳首?」
◆
ちとせと武本の通っている大学は、俺が通っている大学の沿線だ。なので、お互い都合のいい時間に会うことは可能だった。俺の大学の最寄り駅で待ち合わせをする。たぶんこの電車に乗っている、というあたりをつけて、ホームの階段を睨んでいると、案の定降りてきた。
「よう」
「……よう」
かつてないほどへこんでいる様子だ。そんなにひどいのか。
「まあ見せてみろよ」
「やめろセクハラ!」
武本の着ているTシャツをめくろうとすると、必死の抵抗をされた。男の乳首は、公衆の面前でちらりと見えたところで犯罪になりはしないはずだ。
とは言え、相当抵抗があるようだし、気持ちは察することができるので、おとなしく手を離す。
それにしても、と俺が手を離したのにまだTシャツの裾を握って防御している武本を見る。
ビッグサイズの白いTシャツに、黒いスキニーのデニム、高校時代から同じだった気がするし仮に違っても分からないような黒いリュックにはたぬきがついていて、赤いハイカットコンバースの足元に、ディーゼルの時計。いかにもチャラい遊んでいる大学生って感じが板についているものの、どこか違和感がある。
その違和感のもとに気づけないまま、俺は武本に背を押されながら駅のトイレに押し込まれていた。
「なに?」
「話は個室で」
「は? やだよ、何が楽しくておまえと個室に入らなきゃなんねーんだよ、ここでいいだろ」
振り払って、並ぶ便器の前で今度こそ武本のTシャツをめくる。抵抗されるより早く、乳首を覗き込んだ。
「…………」
「ど、どうだろうか……」
いろいろ諦めたのだろう、されるがままになっている彼が、俺に意見を求めてくる。
「……あんな悲愴な声で言われた手前、まあそうかな? って思うけど、言われなかったらまず気にしないレベル」
「えっマジ?」
武本の、友達には相談できなくて俺には相談できる悩みは、「上半身裸の自分を鏡でふと見たら、乳首が女の子みたいにぽちっとしてて、恥ずかしい」というものだった。
何言ってんだこいつ、って感じであるが、表情や声色からするに、奴は本気で悩んでいたようだ。
「寒かったりして鳥肌立ったら、だいたいこうなるだろ」
「平常時でこれなの」
「へーきへーき、バスケ部にも何人か冬でもないのにこういう乳首の奴いたって」
「そうなの?」
なんで俺は、授業とバスケ部で疲れて、今日はバイトないから帰ろうっていう日に、男の乳首を拝まされているんだよ。
俺の言葉に安心して乳首をしまった彼は、情けなくへらりと笑った。表情が豊かで、そういうところが愛されるゆえんなのだろうな、ちり、と心臓に近い部分が軽く焼けつく。
「ありがとな、海行ける」
「……ちとせと行くの」
「あ、うん。あと、大学の友達にも誘われてる」
中原も来る、と誘われたが、こいつの仲のいい友達と気が合うわけがないのは分かり切っているので、丁重にお断りしつつトイレを出る。
おのおのの乗る電車のホームに向かう道すがら、ふと、気になったことを聞く。
「なあ、海行ったことねえの?」
「なんで? あるよ?」
「じゃあ急に今年乳首が気になったの?」
「……あっ、うん、まあ、そうなるね、うん、そうですね」
受け答えに一瞬間があったし、どうにも挙動不審なので、完全に何かを隠している態度である。
「なんで今年急に気になったの?」
「…………自分の裸に興味が出てきたのかな?」
「なんなの?」
「中原には関係ねーだろ! じゃあな!」
「あ、おい」
乳首品定めさせておいて、関係ない、はないだろう。と思うしそれを口に出そうとするが、それより早く、武本が走り出し、ホームへの階段を駆け上がっていってしまった。
何なんだよ、俺のこの得も言われぬ気持ちはどうしたらいいんだよ。
「……」
こうなったら仕方がない。使いたくはない手段であるが、俺はスマホを取り出す。
「……あ、ちとせ? うん、久しぶり、春以来か。おう……うん、なあ、武本と海行くんだろ? え? ああ、なんかさ…………」
何が楽しくて元カノに、彼女の今カレの話を聞かねばならんのだ、とは思うが、気になるものは気になる。
武本の悩みを洗いざらいぶちまけると(関係ないんだもんな?)、ちとせはスマホ越しにくすくす笑った。この笑い方は、そばに家族や近しい人間以外の友達がいるな。
『そっか、彰吾が』
「なんなのあいつ、ほんと自己中にもほどがあるよな」
『でも気になっちゃうんだね』
「……」
そうだ。本来なら、あんな相談を持ち掛けられた時点で、知るか馬鹿、の一言で切って捨てればよかったものを俺はのこのこと約束をとりつけた。気になってしまうから、だ。
肉親でなかったら百パーセントかかわっていないだろうなという性格の弟。のような位置に、武本はいる。
ホームで電車を待ちながら、そういえば武本と会ったときにほんのりと覚えた違和感も思い出す。高校生の頃とは明らかに何かが違うのだが、でも何が違うのか分からない。髪型をマイナーチェンジでもしたのだろうか、眉を剃ったりしたのだろうか?
「武本、なんか変わったよな」
『え? そう?』
「なんか、うん、何が、って言われると分かんないけど」
『そっかあ、変わっちゃったのか』
「? なに?」
変わった、と言うと、ちとせは妙に声を弾ませた。
結局、ちとせに聞いてもいまいち要領を得ない答えで、でもきっと彼女は武本が乳首を気にする理由を知っているんだろうな、って思わせるような含み笑いで。
「ちとせ、武本のことほんとに好きなの?」
『ううん、嫌い』
「じゃあなんで付き合ってんの?」
『特別だから』
俺とちとせは、おんなじだった。他人に好かれようと必死で、いい子ではなくいい奴を演じようとがんばっている。それを軽々と地でやってのける武本が、俺は憎くてしかたない。それはちとせも同じはずなんだけど、俺にはどうにも理解できない感情を、彼に抱いているようだ。
果たして、ちとせがちとせの感情を理解できているのかは、分からないけど。
通話を切って、やってきた電車に乗り込む。
結局乳首のことも、ちとせの感情も分からずじまいだが、ひとつだけ分かったことがある。
ちとせが、武本のことを「彰吾」と呼ぶとき、彼女の声色は赤子の名前を呼ぶように甘ったるくかわいくなる。それって、特別ってことなんだろうな、って。
あーあ、カノジョほしい。
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