番外編
メスの煩悶
広い大学の構内では、彼と遭遇することは意識しないと難しい。今日はたしか、一限からいたはずだ。サイドと後ろを刈り上げた前髪の長い姿を探して、教室を次々覗き込む。
連絡が取れないのだ。ラインしても既読すらつかない。今日はあたしも彼もお昼まででバイトも夜からなので、ちょっとお茶でもしようと思っただけなのだが、ここまで連絡がつかないとちょっと意地になっているところはある。
ひとけのない棟の教室で、彼の後ろ姿を見つけた。大学でできた友人といる。声をかけようとすると、その友人のほうが声を上げた。
「それにしても、大坂さんって色気ねーな」
かけようと、喉まで出かかっていた彼の名前が引っ込んだ。
「やっぱりそう思う……?」
あ?
しょんぼりした様子で、あたしに色気がないことに同意した彰吾が、深々とため息をついた。そんな呼吸が不安になるほど深いため息が出るくらい、あたしは色気がないってことか。
「俺もこのままじゃいけないとは思ってんだけどさ……」
「彰吾」
我慢できずに、やっぱり声をかけた。はっと振り向いた彼は、あたしの顔を見るなりぱあっと顔を輝かせ、幻影の耳をぴんと立ててしっぽを振った。
大きく音を立てて席を立ち、あたしのところにやってくる。身長差が十センチもないうえに、あたしは今ヒールを履いているのでほぼ目線は同じ高さだ。彰吾は、どしたの、と眉を下げたやさしい笑顔で聞いてくる。
「ライン返事なかったから、探してた」
「え? あ、電源落ちてる」
スマホを確認して、うなだれる。かわいい、と思いながらちらりと友人のほうを見た。あたしは、目が大きくて切れ長だから、睨んでいるとか怒っているとか思われることも少なくない。たぶん彼もそう思ったのだ、一応にっこり笑って見せたけど、彼は目を白黒させて目線を外した。
「何の話してたの?」
「え? いや、別に大した話は……」
首をかしげてにっこり笑い、彼はそれとなくはぐらかす。ああ、そう、内緒にするのね。
あたしも笑って、お茶でもしに行こうと誘うと、彼はすぐに乗ってきた。あたしと一緒だと、今更かっこつけてブラックのコーヒーを飲まなくてもだいじょうぶだから、楽しいらしい。
構内を歩いていると、前からやってきた男に彰吾が声をかけられた。
「あっ、ショーゴ、おまえ来週の飲み会来る?」
「行かない、未成年だし」
「うわっ、お堅い!」
「へへへ、俺酒弱いっぽいし」
「女子はみんなそれ狙いだよ、たぶん」
「どういう意味?」
「酔っ払ったショーゴをあわよくばお持ち帰り……」
そこでようやく彼はあたしの存在に気づいたようで、やべ、と一言、不参加なのな、と確認してそそくさと去って行った。
彰吾は、ぽかんとして彼を見送ったあと、あたしのほうを見て首を傾げる。
「女の子って俺をお持ち帰りできるかな? でかいしめんどくさくね?」
「……さあ」
あたしだったら確実にお持ち帰りするけどね……。でも、一緒になって首を傾げておく。
大学からほど近い駅前で、彰吾がどこでお茶をするかと話し出したのを無視して電車に乗る。あたしを追いかけながら、彼は待ってと口にする。
「お茶は?」
「気分じゃなくなっちゃった」
「え……?」
「うちおいでよ」
にっこり笑ってそう告げると、ほんのりと頬を染めてはにかんで素直にうなずく。彼はあたしの笑顔に免疫がない、ちょろすぎて心配になるくらい。
なんだってそうだ、彼はあたしの肯定的な行動に免疫がなくて、ちょっと無理かなと思うようなことでもしおらしくしてみせれば言うことを聞いてくれる。どれだけあたしのことを好きなのだろう、とあきれるのと同時に少しだけ不安にもなるのだ。
免疫ついたらどうなるんだろう、って。
「……大坂さん?」
「あ……」
いつの間にか黙り込んで、彰吾の言葉に反応できていなかったらしい。怪訝そうに顔を覗き込まれ、慌てて首を振った。
「ごめん、なに?」
「別に大したことじゃないけど……、具合悪い?」
「昨日、あまり寝てなくて……」
「そっか」
頭を撫でられて、肩にもたれかけさせられる。
「寝てていいよ、起こしてあげる」
なんとなく、こういう女の子が喜びそうなことを自然とやれちゃう彼の過去に、つまらない気持ちになる。そして、たぶんこれは過去や経験じゃなくて彼の持つ生来の気性がなせるわざなのだと気づいたとたん、もっとつまらない気持ちになる。
どんなに特別でも、やっぱりどこか引け目を感じているし、負けた気がしているのは変わらない。
寝ていないなんて嘘だけど、大丈夫、と言うのも何か違う気がして、あたしは素直に彼の肩に頭を預けて目を閉じた。電車の震動がときどき、彰吾の肩の骨にあたしの頬をぶつけて痛いけど、なんだかそれは変にくすぐったい。
「着いたよ」
知ってるけど。
今起きたように、揺すられて身を起こし、目をぱちぱちさせる。電車を降りて少し歩いて、彰吾の家の前を素通りして我が家に向かう。
今の時間、当然ながら佳音は学校、今日は父親は仕事、母親がいるかどうか微妙な線だ。
鍵を開けて家に入ると、母親の姿はなさそうだった。ふう、と短くため息をついて、二階の自分の部屋に彼を通す。キッチンでお茶をコップにそそぎながら、まあたしかに、と思う。
まあたしかに、いつもいつも彰吾ばっかり気持ちよくさせて自分のことは触らせないし、彼を征服してぐちゃぐちゃに甘やかすのは精神的にものすごい充足感を覚えるもののおのれの身体が満足しているとは言い難い。それは言い換えれば、彰吾はあたしの気持ちいい顔をあんまり見ていないかも、ということだ。
だから色気ないとか言われちゃうんだろうか。
部屋のドアを開けると、彰吾は本棚の前で何か物色していた。あたしを振り返り、目をきらきらさせて言う。
「ねえ大坂さん、これ見てもいい?」
「……?」
彰吾が指で示したのは、なんてことない女の子のメイクとか服とかが載っている雑誌だ。全然問題ないけどなんでそんなに目をきらきらさせて聞くんだろう……と怪訝に思いつつもうなずく。
ページをぺらぺらとめくりながら、彼はぽつんと呟いた。
「姉ちゃんは、ああ見えてあんまり雑誌買わないから、ちょっと読んでみたかったんだよね」
「……そうなの?」
汐里ちゃんはいかにもそういう雑誌とかSNSとか好きそうだけど。
「インスタやってるし、少女漫画も買うけど、雑誌は買わないんだ」
「へえ」
むしろ少女漫画を読むほうが意外だ。と思っていると、ページをめくる手を止め、ちょっと彼が頬を染めた。
「姉ちゃんの少女漫画、ちょっとエロいっていうか、なんていうか……」
「そうなんだ……」
「エロメインじゃないけど、必須みたいな感じ」
「ああ……へえ……そうなんだ……」
汐里ちゃんがそういうのを読む、というよりも、彰吾がたぶんこっそり姉の部屋のちょっとエッチな漫画を読んでいる、というのがなんだかおかしい。
となりに座って、雑誌を読んでいる彰吾の太ももに手を置いた。ぴくんと腰が跳ね、あたしのほうを見る。
「お、大坂さん……?」
「漫画、女の子がそういうことされてるの見て、彰吾はどう思うの?」
「え……?」
「あたしに同じことしたいって思う? それとも」
つつ、ときわどいところに指を置いて、耳元でささやいた。
「されたい?」
ふつ、と彰吾の赤くなった首筋に鳥肌が立ったのを見て、どうしようかな、と思う。彰吾はあたしに抱かれることを期待しているのかもしれないけど、それだとあたしの色気がないという問題は解決しない。
「……いれてみたい?」
「……え?」
「いれられるより、いれてみたい?」
「……」
潤んだ目が、戸惑うようにあたしを見つめて、どうしたの、とささやいた。
「どうしたの……? なんか、変だよ」
「……」
「いつもいれたいかなんて聞かないじゃん……」
すっかり飼い馴らされたような目であたしを胡乱げに見つめる。ここで隠し立てしたって仕方ないしどうしようもない、と判断したあたしは、白状することにした。
「ごめん、聞いたの」
「え?」
「さっき、彰吾と友達がしゃべってたこと、聞いたの」
「……え、あ、き、聞いてたんだ……」
恥ずかしい、と目を伏せた彰吾に疑問が散る。
「何が恥ずかしいの?」
「あんなの、友達に相談してたなんて知られたくなかったし、自分で解決したかったんだ、ほんとは」
「……あたしに色気がないことを彰吾が解決するの?」
「え?」
「え?」
苦々しく吐き出せば、きょとんとされた。
「何の話してるの?」
「え? だから、さっきしゃべってたじゃん、あたしに色気がないって」
「えっそんな話してないんだけど……」
おかしい、話が噛み合わない。あたしはたしかに彼の友達の「大坂さんは色気がない」という発言を聞いた、でも彰吾は別にごまかそうとしているふうではない様子で、噛み合わない。
眉を寄せると、あっ、と彰吾がひらめいたように叫んだ。
「もしかして
彼の名前は匡臣というらしい。どうでもいい。頷けば、ひとりで納得したようにはにかむので、いらいらしてきた。
「なに?」
「あのね、実は……大坂さん、っていう俺の呼び方に、恋人同士っぽい色気がないよね、っていう話だったんだ……」
「…………なにそれ?」
彰吾の説明と補足によるとこういうことだ。付き合っているのに、彰吾があたしのことを大坂さんと呼ぶのを聞いた友達に、おまえその呼び方色気ないよ、とたしなめられた、という……。
くだらない。
「好きに呼べばいいじゃん、人に言われたからって」
「違うよ! 俺だって、色気ないって思ってたし! ほんとは名前で呼びたくて……」
尻すぼみになっていく告白がかわいくて、にやりと口の端が持ち上がる。
「……だから……な、名前で呼んでもいい?」
「彰吾が呼びたい呼び方でいいよ、呼び捨てでも、ちいちゃんでも」
なんて呼ぶかな、と思いながら待っていると、少し悩んだ末に彼が出した答えは、けっこうかわいいものだった。
「ち、ちとせちゃん」
「……」
「あ、駄目だった?」
「いや……結局それって色気ないような気がして」
「え!?」
ショックを受けている彰吾をよそに、かわいいからまあいいか、と思って両手で頭を撫でる。髪の毛の中に指を入れてくるくると頭皮を撫でるように深くさすると、濃い茶色の瞳がとろっと糖蜜のように甘ったるくなって、照れくさそうに笑う。
「呼び捨ては、そのうち……」
「うん、そうだね」
「で、さ……」
「?」
何か言いにくそうにもごもごと口の中で言葉を転がしている彰吾に首をかしげて視線を落とし、ああ、と思う。
「で? 彰吾は、抱きたいの? 抱かれたいの?」
「……選ばせてくれるの?」
「うーん、まあいいよ、今日は特別」
「じゃあ……」
せっかく選ばせてあげると言ったのに。彰吾の答えに満足して、そっと下唇に親指をかけて、口を開かせて重ねる。
いつも通りねちっこく愛撫を重ねながら、そろそろ指だけじゃなくてもっといろいろいれてみたいかも、と考えたりしていることは、彼には内緒にしておこうと思った。
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